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古絵図に見える弁天社 25.6.22

 ここでは「弁天社・辨天社・弁財天」などが登場しますが、その都度参照した本や資料の名称に合わせました。

高島城と弁天社

高島城下町絵図 江戸時代の本『洲羽事跡考』では、諏訪湖で逆さ富士が見られた場所として「辯天社の辺り」を挙げています。『諏訪藩主手元絵図』の〔小和田(こわた)村〕でその「弁才天」を見つけましたが、『慶応四年信濃国高島城下町絵図』でも、三之丸の堀端から参道が続く「弁天社」が確認できました。ここでは、長野県古地図刊行会の復刻版から、その一部を転載しました。
 ネット地図でその辺りを探すと、弁天町と弁天橋の名を見つけることができました。しかも、絵図では斜めの参道が、そのまま家並みの“隙間”として残っています。思わず「おーーー」と声を漏らしてしまいました。こうなれば、もう現地へ行くしかありません。


弁天社の(推定)参道跡をlineで表示してみました。

弁天社の参道跡を探せ

 プリントアウトした地図を手に、右は民家・左は事務所という小路の入口に立ちました。ところが、始めは確かに小路でしたが、すぐに、側溝を含めて1mもないという狭さに直面しました。
弁天町「境」 ブロック塀に右手を添えながら、長く伸びてしかも密生したスギナを踏み固めながら進みます。靴底に感じる凹凸に気味悪さと、こんな所を通って怪しまれないかという懸念が広がりますが、民家の切れ目に目を配りながら突き進みます。しかし、何も得られないまま、右に弁天橋が見える車道に出てしまいました。「弁天社は、すでに消滅か」という落胆が広がりますが、振り出しに戻って、弁天町の住人にすがることにしました。
 意を決して、「社会保険労務士行政書士」と看板がある事務所のカウンター前に立ちました。相手にとっては業務外の闖入者です。なぜここに来たのかの理由を地図を示しながら話し始めると、「この人の方が」ということで、奥にいた年配の女性を紹介してくれました。
 やり取りをする中で、40年前という子供の頃に「公民館の横に鳥居があった」ことを思い出してくれました。しかも、◯印を付けた住宅地図をコピーしてくれる配慮もあって、退出時には、感謝の意を込めて何回も深く頭を下げてしまいました。

弁天社 中門川に沿った道を行くと、「小和田地区公民館 弁天1・3分館」の入口に、御柱で囲われた石祠が見えます。「弁天社がまだ残っていた」と感動したのですが、その周囲を見回しても弁天社に関した表示はありません。
 公民館は閉まっており、隣家も無住なのか応答がないので裏を取ることができません。この祠が弁天社でない可能性もありますが、参道跡を歩いたことは確実なので、太陽の過分な輻射熱とは別の熱さが体の中に満ちました。

中門川と弁天橋
弁天橋と中門川

 今日は「逆さ富士」が目的ではありませんが、一応、富士山が見える方向を撮ってみました。しかし、御覧の景観では、この辺一帯が湖または一面の水田だったとはとうてい信じられません。直ちに、遙か昔を偲ぶことは止めにしました。
 この日は諏訪市でも30度を超えて汗まみれになりましたが、大きな成果があったので意気揚々と自宅へ戻りました。車載の外気温計ですが、標高1000mの原村でも27度ありました。

弁天社の史料を探せ

弁天社が描かれた絵図

『御枕屏風』 探せば出てくるものです。寛文4年(1664)に作られた『御枕屏風』に弁天社を見つけました。絵図では一番古いものとなるので、『慶応四年信濃国高島城下町絵図』に描かれた弁天社の参道は、この頃は川であったことが推定できます。ただし、すべての川が余りにも直線で描かれているので、断定はできません。

『甲州道中分間延絵図』 次は、東京美術『甲州道中分間延絵図』の「上諏訪宿」の一部です。
 江戸幕府の道中奉行所が寛政から文政年間(1800年頃)に作成した絵図の復刻版ですが、これに載っているということは、この時代でも結構知られていた神社ということになります。

『諏訪藩主手元絵図』 冒頭で挙げた『諏訪藩主手元絵図』の「小和田村」です。諏訪史談会の復刻版からその一部を転載しました。ただし、右下の「御城」の左に書き加えた「○◯丸」の表示は正確な場所ではありません。
 弁才天の上に描かれた「出湯」は、現在は取り壊された三ノ丸温泉の源泉「下鶴沼」ということになります。

文献に見る弁天社

 高遠藩の儒者兼医師中村元恒の作とある『八詠楼之記』の一部です。

楼の前小河の先きは淤泥(おでい)なり、旱する時は歩すべし洪水の時は舟すべし、泥池に澤泻(沢瀉・オモダカ)水葵真菰蘆蒲(ミズアオイ・マコモ・アシ・ガマ)あり、楼の正面すこし右之方泥池に續(続)弁天宮あり、夏水洪蕩ある時は泥池と小河と一面して鏡のごとし、

 三之丸に八詠楼を造ったのは元文2年(1737)とあるので、彼の生没年を参考にすると、1830年頃の作でしょうか。この頃は、まだ“湿地時々沼”という景観であったことがわかります。

 郷土出版社刊『図説・高島城と諏訪の城』の〔三之丸とその周辺〕に、以下の文を見つけました。目次で確認すると、この章の担当は浅川清栄さんでした。

弁 天 社 跡
寛文四年(一六六四)の「御枕屏風」をみると、中門川沿いに弁天社がある。十三世紀の嘉禎年中成立といわれる「根元記」に「高島ニ八劔弁財天」とあるのはこの社と思われる。北西側も水路で、水路に囲まれた島になっていたので、弁財天を祀ったのであろう。やがて、水路は道に変わった。それは寛政八年(一七九六)ころ、ここを通って鶴沼湯から木管で温泉を引き、三之丸温泉を作る以前であろう。弁天社があった所は、字弁天島二九四八番地、二畝五歩で、明治の土地台帳では官有地になっている。弁財天の垂迹(すいじゃく)が一杵島姫(いちきしまひめ)であることから、明治になって厳島社と呼ばれるようになった。その後八劔神社の境内社になっている

 著者は、この弁天社を『根元記』に載る「八劔弁財天」と推定しています。

八劔弁財天 諏訪市『諏訪史 上巻』の付録『諏訪市史跡・文化財地図(古代・中世篇)』にも、本文に直接の記述はありませんが、この弁天社を中世の神社「高島弁財天」と位置づけています。実は、私も「『祝詞段(根元記)』に見える高島弁財天」として“これ”を書き始めたのですが、調べる中で「江戸時代の勧請」が濃厚になったので、「古絵図に見える弁天社」と方向転換する羽目になってしまいました。

 最後に「弁天社は八劔神社の境内に移転」と書いていますが、これはすでに『諏訪史蹟要項 上諏訪篇』で承知していました。

八劍神社「厳島社」
八劍神社にある「厳島社(弁天社)」

 確かに、明治の神社合併で多くの小社が一ヶ所にまとめられました。しかし、旧跡地となっても地域の住民が新しく祠を再建し、相変わらず祀っているケースが少なからずあります。弁天町の場合は、新たに石祠を造って、公共の施設である公民館の敷地内に再び祀ったとしました。類例とは言えませんが、諏訪では、公民館の前に移転させた道祖神をよく見ることができます。

信濃国諏訪郡高島城絵図 少し横道にそれましたが、〔弁天社跡〕に添付してある「三之丸跡の復原図」の一部を赤く着色して転載しました。「2948番が官有地であることから、その区画が弁天社跡」と説明している部分です。当時は、諏訪神社(現諏訪大社)上社がそうであったように、神社の境内(社地)を国が奪う(官有化する)ことがよく行われましたから、“そういうこと”になるのでしょう。
 そうなると、ここまで書き連ねてきた『信濃国諏訪郡高島城絵図』にある弁天社「斜めの参道」が説明できなくなります。そう疑問を投げかけても地番付の土地台帳には逆らえませんが…。

斜めの小道は、三之丸温泉のパイプライン埋設の道

 三の丸温泉跡にある『三の丸温泉由来』の一部です。

高島藩7代藩主 諏訪忠粛(ただたか)の意により、高島藩作事方筆頭大工棟梁 伊藤儀左衛門光禄(みつよし)が天明6年(1786年)、高島城天守石垣の修復大工事を成した年の11月、下鶴沼(現在の弁天町)に自然湧出していた温泉を木管で220間引湯して…
パイプラインの跡「道」
東側から見た「引湯パイプライン」の跡(27.2.26)

 『高島城下町絵図』が発端となった“謎解き”ですが、前出の〔弁天社跡〕とこの『由来』から、“斜めの参道”は「川→道→温泉のパイプライン」と変遷してきた道であることがわかりました。そのため、江戸時代最晩年に編纂された絵図では斜めに描かれた参道も、実際には中門川に並行した道だったということになりました。

弁天1・3分館前の祠

 昭和57年発行のガリ版刷り冊子ですが、小和田地区公民館編『小和田の昔ばなし』を見つけました。

現在の弁天町一、三丁目の明治初期の状況
 …公民館より少し下の宮坂◯◯さん宅の所に、ちいさな森があって弁天様が祀られていた。
弁天町の町名の由来
 高島藩二代藩主諏訪忠恒公(徳川三代将軍家光の頃)のとき高島城の鬼門除として京都から弁財天の霊を迎え現在の藤森◯◯氏居宅地点に立派なお堂を建立した。縁日には城主自ら参拝し城下住民の安泰を祈ったという。しかし、後年火災にかかり焼失してしまったのは惜しい事であった。再建されたお堂は明治四十三年八劔神社郷社昇格の折、同社境内に移転して拝殿の東側の現在の地に安置されている。

 ここに、◯◯が同名の宮坂さんと藤森さんが登場します。住宅地図で、弁天社跡とされている辺りに目を落とすと、宮坂◯◯さんの名前がありました。そうなると、藤森姓は誤記か記憶違いということになりますが…。それは経過報告として、弁天1・3分館前にある石祠が弁天社であることは消えました。同書に載る「天神」と「道祖神」のどちらかということになります。

 平成28年になって、分館前の祠についての情報をメールで頂きました。

 1月17日に同館で道祖神祭が行われました。地区の古老のお話しでは「あれは道祖神で、分館から川下へ向かって3軒目と4軒目の間の川沿いにあった」そうです。林家と宮坂家との間とのことです。八剱神社に移転した「弁天社」と同じ場所にあったということでしょうか。天神さまは、同館の二階の中床に祀られていました。

 これで、分館前の石祠は道祖神と確定しました。

源泉「下鶴沼」と三之丸温泉 27.2.20

 別項として紹介したものですが、予告通りに統合しました。

 古絵図にある道が「三之丸温泉パイプライン埋設の道」とわかったので、その源泉を尋ねてみました。

下鶴沼
長野県古地図刊行会『復刻 慶応四年信濃国高島城下町絵図』(部分)

下鶴沼跡

下鶴沼 まずは、三之丸温泉の源泉だった下鶴沼です。地図は持たなかったのですが、駐車場の隅に石碑があるのを見つけました。
 近づくと、その右奥には“諏訪の常識”である御柱で囲われた湯神があります。中を覗くと、「諏訪市統合温泉神社下鶴沼統合温泉組合の湯」の文字がありました。
 石碑は下鶴沼源泉跡の記念碑ではなく、「宮坂玉治翁」の頌徳碑でした。従って、関係ある箇所のみを抜粋しました。

 抑(そもそも)下鶴沼源湯の天恵は旧諏訪藩の開発に係り、高島城並に三の丸温泉に引湯利用されたるも後世島崎区民に開放せられたものである。(中略)
 茲(ここ)に下鶴沼温泉の由来を刻みて後世に伝えんとするものである。

三之丸温泉跡

三之丸温泉跡
space湯神と御柱spaceつくばいspace由来碑

 三之丸橋(右端)の袂に、湯気が上がる手洗い(つくばい)と、こちらも御柱に囲われた湯神の石祠がありました。
 右側に『三の丸温泉由来』碑があるので、偶然に見つけた旅人でも、二つ並んだ怪しげなモノが何であるのか理解できるでしょう。
 「三之丸温泉組合・下鶴沼統合温泉組合」とある碑文を転載しました。

 三の丸温泉は、高島藩七代藩主 諏訪忠粛(ただたか)の意により、高島藩作事方筆頭大工棟梁伊藤儀左衛門光禄(みつよし)が天明六年(1786)、高島城天守石垣の修復大工事を成した年の十一月、下鶴沼(現在の弁天町)に自然湧出していた温泉を木管で二百二十間引湯してこの地に浴室と汲み湯場を設け、当初は藩主が使用し、次いで城内居住の藩士一同に便宜を図ったのが始まりであった。
 明治維新後、県より払い下げを受けた旧藩士は三の丸湯を「士族の湯」とし使用し維持管理してきたが、新町民も増えその要請に応じ大正十四年(1925)三月、所有者である旧士族(旧連衆)と移住区民(新連衆)とで契約し、新浴場を建て、島崎区が中心となり共同浴場として運営された。
 昭和二十年以後、「三の丸温泉組合」に衣替えし、昭和三十年九月には住民増に対応し第二浴場を高島城本丸の南西側に増設した。
 しかし昭和五十四年、諏訪市の温泉統合によって全市的に温泉網が構築されるや使用者漸減し、平成八年(1996)、現在地の第一浴場は閉鎖取り壊され二百余年に及ぶその使命を終えた。

 この場所は、絵図では「湯」と書き込んだ部分()です。石碑を正面に見る位置に立つと、背後が高島城の三之丸ということになりますが、川向こうの二之丸とともに、かつての景観は想像すらもできませんでした。

 未だに『御枕屏風』が描かれた当時の地勢が現存しているのに驚き、その道を歩いたことに感動しました。それは初期の考えとは違った結果になりましたが、その評価が下がることはありません。