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永明寺跡と頼岳寺 茅野市上原 27.3.19

 『諏訪郡諸村旧蹟年代記』に、〔一、上原村〕があります。関係する部分を転載しました。

 千鹿頭東之方澤向留山(※向富山)永明寺、三河國に本寺有云、
 寛永七(訳)有て炎上す、此所新汐上に諏訪美作守樣御石碑有、同年少林山頼岳寺建
諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書』

 この記述の原典と思われるものが、諏訪史談会『諏訪史蹟要項 茅野市ちの篇』にありました。『頼岳寺再建略事記』にある“問答”です。

 寛永七庚午年少林山頼岳寺宗沢庵共に太守公様御建立、元千鹿頭東の沢に而(して)向富山永明寺訳有而破却焼失、三州に本寺有之由参候(そうら)えば、右寺御遺被也候哉如何哉と申、
 いや其の代り頼岳寺湖庵二ヶ所建立致候と答と云、

 高島藩主諏訪頼水(太守公様)が、永明寺の代わりに頼岳寺を建立したことがわかります。

永明寺の炎上

 障りがあるのか、両書とも、永明寺の炎上を「訳が有って」と濁しています。しかし、“現在では周知の歴史”ですから、今井広亀著『諏訪高島城』の〔代々の高島藩主〕から転載しました。

 世に永明寺事件というを伝えている。頼水の末娘亀姫が頼水にあてた書状を、使いの下男が途中でとなりの下男と喧嘩し、衣之渡川へ捨てられてしまった。となりの下男は後難をおそれて永明寺にかけこんで命乞いをした。頼水は罪人をかくまった僧を寺から追い、罪人は捕えて首を刎ね、寺は焼きすててしまったというのである。頼水の苛酷な一面として語り伝えられているが、僧侶といえども仮借しないような強い一面もあった。

 嫁ぎ先で起きたトラブルを父の高島藩主に告げ口したのが発端ですから、織田信長を彷彿とさせる頼水の性格が伝わってきます。しかし、父が開基し墓もある永明寺ですから、何か別の理由があって、これを好機として破却したのかもしれません。

永明寺跡

 私事(わたしごと)ですが、各史料を読んで、初めて永明寺が千鹿頭神社の東方に“あった”ことを知りました。実は、その名を冠する山や公園・遊歩道があるので、永明寺は“現役”の寺院とばかり思っていました。そこで、永明寺跡を自分の目で確認することにしました。
 千鹿頭神社を参拝してから千鹿頭墓地を横切り、永明寺山遊歩道をオギノ方面へ歩きます。

永明寺跡
「永明寺跡」碑

 すぐに「永明寺跡」とある石碑が現れ、この一帯に永明寺があったことがわかりました。
 石碑脇の小道を登ると、墓地があり、古びた石垣で造成された平地が幾壇かありました。しかし、上原五山の一つである永明寺がここにあったとは、とうてい信じられるものではありませんでした。

大祝廟から頼岳寺と永明寺

 茅野市高部にある神長官守矢史料館と大祝廟を通して眺めた、永明寺跡と頼岳寺です。