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藤島神社(洩矢神社と藤島神社) 岡谷市川岸三沢

 川岸村誌刊行会編『川岸村誌 続』〔神社・仏閣〕からの転載です。

藤島神社 三沢区垣外鎮座。御祭神は藤島大明神即ち諏訪大神であり、諏訪大明神絵詞によれば「尊神垂迹の昔、洩矢の悪賊神居をさまたげんとせし時、洩矢は鉄輪を持して争い、明神は藤の枝を取りて是を伏し給う……中略……明神誓を発して、藤枝を投げ給いしかば、則根をさして枝葉をさかえ、若葉あざやかにして戦場のしるしを万代に残す、藤島の明神と号するは此故也(このゆえなり)」とあり、当社創立の年代を古代にさかのぼらせている
 古は公神或は荒神とも称していた。境内一帯が古墳であり、明治十四年川除堤防工事の為め用石を求めんとして初めて発掘し、曲玉・剣・馬具その他を発見したが再び小石室に納めて小祀の下に保存されている。(川岸村誌第二編参照)
 古墳の石廓はその後県道拡張の為め取り崩されて、今は石廓の東壁に当る一巨石が旧位置のまま県道石垣の一つに利用されている。
 境内の大欅は目通り十八尺余もあり、これに大藤蔓が巻きついていたのであるが、昭和九年伐採して了(しま)ったのはおしいことである。

 ここでは、「当社創立の年代を古代にさかのぼらせている」としています。しかし、『諏方大明神画詞』にあるのは「藤島明神の故事」ですから、洩矢神社の創立年代に結びつけるのは早計でしょう。

 次に、ここでは省略した〔第一項 神社〕では、明治12年の届書に三沢分の雑社として「荒神社・御社宮司神社」の二社。明治16年の村社及び小社の祭典日届では「荒神社/二月十七日・大天狗社/旧三月四日」を挙げていますが、藤島神社の名はありません。藤島神社にラブコールを送っているのは橋原村で、三沢村ではその気がないように見えます。

“消滅”した藤島神社 17.10.5

 「荒神塚」と「藤島神社」のキーワードを提(ひっさ)げて、チャイムのボタンを押します。このどちらかを掲げれば、即刻、藤島神社の前に立てると目論(もくろ)んだのですが…。今日の土曜日という日柄がわるいのか、静まりかえっています。これで3軒目です。

藤島神社跡 実は、図書館で絞り込んだ「藤島神社は荒神塚古墳の上にある。その場所は中央印刷の隣」ですが、現地は県道の拡幅工事の真っ最中でした。

 「この状況では自力で探し出す楽しさを放棄するしかない」ということで、次はどの家へと見渡すと、耳の方に頼りになりそうなチェンソーの唸りが入ってきました。
 この家の主人らしき男性が一息つくのを待って、生け垣越しに声を掛けてみました。「工事のため、藤島神社は熊野神社に移してある」と答えると、そのまま門から出てきます。「案内します」の声に、“渡りに舟”を隠すように「申し訳ないです」と恐縮しながら後に従いました。

藤島神社から洩矢神社遠望
“藤島神社”から、洩矢神社を遠望

 道向こうを指した先は、先ほどその上に立って「古墳はどこだ」と見回した場所でした。地肌の赤土が見える草地だったので、靴の下が探していたものだったとは思いもよりませんでした。
 戻った自宅を通り過ぎる背中を見て、熊野神社に仮鎮座しているという藤島神社も案内してくれることを知りました。

藤島神社 案内された熊野神社の一画には石祠が並び、その前には灯籠が分解したままで置かれています。最奥にあるのが、先週それと知らずに横目で見た藤島神社であることを教えられました。
 改めて観察すると、重心が高い木祠とあって基部がコンクリートの角柱にボルトで固定されており、それが如何にも仮安置という現在の立場を表していました。

藤島神社の古写真
熊野神社奉納写真

 幾つかの質問をする中で、「子供の頃、藤島神社にはケヤキの大木があったが焼けてしまった」との話に、ハタと思い当たるものがありました。使う目的もないまま撮っておいた、熊野神社の拝殿内に掛けてあった古写真のことです。
 工事前の姿を知りませんが、写っている木祠が目の前の祠と酷似しています。しかし、その写真は「熊野神社の拝殿」に飾られています。境内にも洞(うろ)の中が焦げた大木があるので、「熊野神社境内社」の可能性もあります。

藤島神社の古写真
「藤島神社」とわかった奉納写真(拡大)

 私には藤島明神の化身とも思えた地元の俄(にわか)ガイド人ですが、たまたま現れた知人と立ち話を始めたので、それを機会に篤く礼を言って別れました。今日は、跡形もなくなった荒神塚−藤島神社境内地と熊野神社に仮遷座中の社殿を見ただけに終わりました。

 一週間後、ミステリーの謎解きにも似た面白さに取り憑かれて岡谷市図書館へ向かいました。

藤島神社
荒神塚の絵図(部分)

 伊藤正和・三沢弥太郎著『岡谷歴史散歩』に[荒神塚古墳]があり、明治14年発掘当時とある絵図が載っています。
 さっそく写真と比較してみると、灯籠の場所が異なっていますが、樹形がそっくりなので、熊野神社奉納の写真が「藤島神社」であることが確定しました。

発掘前の藤島神社 さらに移転前の写真を探すと、長野県諏訪建設事務所・岡谷市教育委員会『荒神塚古墳』に、「調査前全景」とある写真がありました。
 これで、「藤島神社の焼けた大木」は、熊野神社の焼けた大木を混同した話であることがわかりました。

“新装”藤島神社 19.3.11

 今朝は、起きてビックリの10センチの積雪でした。早くの日射しに道が乾き始めたのを見て、藤島神社へ行くことを思い立ちました。3月では大げさかなと思いましたが、たまたま車に放り込んだままだったダウンジャケットを羽織ると、3度だった気温と強い風からしっかり守ってくれました。

藤島神社 写真と同じように県道に背を向けている社殿を左に見ながら一旦通り過ぎ、歩道脇に沿った細長い境内を戻る方向で入りました。
 本殿を背後にして立ちますが、…正面の建物が邪魔で見覚えのある洩矢神社の杜が見えません。境内の端まで寄ると、写真では右奥の第一印刷との間から、ようやく黒い木々の塊が見通せました。

絵図に見る藤島神社(公神)

 洩矢神社の『洩矢神社由緒略記』では、「建御名方命は持っておられた藤の枝を投げた処、その枝は根付いて繁茂して藤洲羽の森となったのが現在の荒神塚、藤島神社(三沢区)である」と断定しています。

藤島神社(公神社)
諏訪史談会編『復刻諏訪藩主手元絵図』〔三沢村〕(部分)

 (何を根拠にしているのか心配になりますが)その場所を江戸時代に作られた『復刻諏訪藩主手元絵図』で見ると、「公神」と書いてあります。
 これが藤島神社ということになり、現地にある案内柱は「岡谷市指定史跡 川岸天竜河畔 諏訪明神入諏伝説の地」と説明しています。伝説地がなぜ史跡になるのかが不思議ですが、岡谷市のお墨付きなので、教育委員会の指示に従うのもいいでしょうか。

対岸から見た藤島神社 24.4.19

 対岸から藤島神社を眺めると、今月は降水量が少なめとあって、天竜川は緑がかっていました。

藤島神社 24.4.19 社殿は、やや斜めの向きです。洩矢神社と対峙するように設置したのでしょうか。
 三沢区誌編纂委員会『三沢の歴史』では「昭和11年に釜口水門が作られ、諏訪湖との落差を付けるために天竜川を約1.5m掘り下げるまでは水位が現在より高かったので、天竜川畔に立っていた感じであったと思われる」と書いています。確認ができていませんが、二段の護岸石垣を現・旧としてみました。

改めて「荒神塚古墳」 25.9.28

 前出の『三沢の歴史』は、今年(平成25年)発刊された区誌です。三沢は旧三澤村で、藤島神社の地元です。さっそく新しい情報を求めて「荒神塚古墳」の文字を探しました。

(1) 古墳の成り立ちと名称
 (古墳の概略を述べて)ここまでは明白だが、その後の長い間の村人の信仰活動を通して、名称や塚の持つ意義などが複雑に絡み合っていった
 「三澤郷土誌天の巻」には……信ずべき古記録によると「陵明神(りょうみょうじん)」または「十五所明神」が正しい名称で、「荒神塚」とは後に合祀された三宝荒神のことを村人が呼んだのであり、正しい名称ではない……と記されている。
 高島藩五代藩主諏訪忠林(ただとき)の時に作成された「手元絵図」(一村限図)には「公神」(荒神の意か)と書かれている。現在でも祭神不明の小さな石祠が3基あるが、その一つは荒神様かもしれない。
(2) 現在の社名「藤島神社」について
 荒神塚古墳には古くから諏訪明神を祭神とする藤島神社が祀られ、建御名方命(諏訪明神)の入諏伝説が語り継がれてきた。(中略) ただ、両者が天竜川を挟んで争ったかどうかは不明な点がある。諏訪神社の「神長官」となった守矢家には多くの古文書が遺されているが、それによると藤島神社は上社の近くにあるという(『県宝守矢文書を読む』細田貴助著)。(後略)

 区誌ですから、相方の洩矢神社『由緒略記』に比べ、冷静かつ客観的に書いています。その好評価は別として、天皇陵のように古墳に神社があれば、被葬者を祀っていると考えることができます。しかし、この古墳を建御名方命(藤島明神)の墓とすることはできませんから、やはり、対岸にある洩矢神社との絡みで成立した新しい話(神社)であることは間違いありません。


‖サイト内リンク‖ 藤宮の元宮が藤島神社(洩矢神社参道延長ライン)