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藤島神社(洩矢神社と藤島神社) 岡谷市川岸三沢

“消滅”した藤島神社 17.10.5

 「荒神塚」と「藤島神社」のキーワードを提(ひっさ)げて、チャイムのボタンを押します。このどちらかを掲げれば、即刻、藤島神社の前に立てると目論(もくろ)んだのですが…。今日の土曜日という日柄がわるいのか、静まりかえっています。これで3軒目です。

藤島神社跡 実は、図書館で絞り込んだ「藤島神社は荒神塚古墳の上にある。その場所は中央印刷の隣」ですが、現地は県道の拡幅工事の真っ最中でした。

 「この状況では自力で探し出す楽しさを放棄するしかない」ということで、次はどの家へと見渡すと、耳の方に頼りになりそうなチェンソーの唸りが入ってきました。
 この家の主人らしき男性が一息つくのを待って、生け垣越しに声を掛けてみました。「工事のため、藤島神社は熊野神社に移してある」と答えると、そのまま門から出てきます。「案内します」の声に、“渡りに舟”を隠すように「申し訳ないです」と恐縮しながら後に従いました。

藤島神社から洩矢神社遠望
“藤島神社”から、洩矢神社を遠望

 道向こうを指した先は、先ほどその上に立って「古墳はどこだ」と見回した場所でした。地肌の赤土が見える草地だったので、靴の下が探していたものだったとは思いもよりませんでした。
 戻った自宅を通り過ぎる背中を見て、熊野神社に仮鎮座しているという藤島神社も案内してくれることを知りました。

藤島神社は熊野神社で仮鎮座

藤島神社 案内された熊野神社の一画には石祠が並び、その前には灯籠が分解したままで置かれています。最奥にあるのが、先週それと知らずに横目で見た藤島神社であることを教えられました。
 改めて観察すると、重心が高い木祠とあって基部がコンクリートの角柱にボルトで固定されており、それが如何にも仮安置という現在の立場を表していました。
 幾つかの質問をする中で、「子供の頃、藤島神社にはケヤキの大木があったが焼けてしまった」との話に、ハタと思い当たるものがありました。使う目的もないまま撮っておいた、熊野神社の拝殿内に掛けてあった古写真のことです。工事前の姿を知りませんが、写っている木祠が目の前の祠と酷似しています。

藤島神社の古写真
熊野神社奉納写真「藤島神社」

 しかし、その写真は「熊野神社の拝殿」に飾られています。境内にも洞(うろ)の中が焦げた大木があるので、「熊野神社境内社」の可能性もあります。
 私には藤島明神の化身とも思えた地元の俄(にわか)ガイド人ですが、たまたま現れた知人と立ち話を始めたので、それを機会に篤く礼を言って別れました。今日は、跡形もなくなった荒神塚−藤島神社境内地と熊野神社に仮遷座中の社殿を見ただけに終わりました。

 一週間後、ミステリーの謎解きにも似た面白さに取り憑かれて岡谷市図書館へ向かいました。

藤島神社
荒神塚の絵図(部分)

 伊藤正和・三沢弥太郎著『岡谷歴史散歩』に[荒神塚古墳]があり、明治14年発掘当時とある絵図が載っています。さっそく写真と比較してみると、灯籠の場所が異なっていますが、樹形がそっくりなので、熊野神社奉納の写真が「藤島神社」であることが確定しました。なお、カットした余白には「此社は南向にして (天)龍川に臨む 四方は田畑なり…」で始まる書き込みがあります。
 また、川岸村誌『川岸村誌 続』の〔神社・仏閣〕には、

藤島神社
…境内の大欅は目通り十八尺余もあり、これに大藤蔓が巻きついていたのであるが、昭和九年伐採して了(しま)ったのはおしいことである。

とありました。これで、「藤島神社の焼けた大木」は、熊野神社の焼けた大木を混同した話であることがわかりました。もちろん、彼の親切心に免じて許すことにしました。

“新装”藤島神社 19.3.11

 今朝は、起きてビックリの10センチの積雪でした。早くの日射しに道が乾き始めたのを見て、藤島神社へ行くことを思い立ちました。3月では大げさかなと思いましたが、たまたま車に放り込んだままだったダウンジャケットを羽織ると、3度だった気温と強い風からしっかり守ってくれました。

藤島神社 工事で移転前の藤島神社は、写真でしか見たことがありません。同じように県道に背を向けているのを左に確認しながら一旦通り過ぎ、歩道脇に沿った細長い境内を戻る方向で入りました。
 本殿を背後にして立ちますが、…正面の建物が邪魔で見覚えのある洩矢神社の杜が見えません。境内の端まで寄ると、写真では奥の第一印刷との間から、ようやく黒い木々の塊が見通せました。

絵図に見る荒神社(公神)

藤島神社(公神社)
諏訪史談会編『諏訪藩主手元絵図』

 「洩矢神に勝った諏訪明神(建御名方命)が用いた(使途不明の)藤が根付いたので記念とした」というのが、諏訪の各地にある藤島神社の謂(いわ)れです。
 「岡谷市の藤島神社」では、その下が他人の墓(古墳)で、つけられた名前も「荒神社」です。江戸時代に作られた『諏訪藩主手元絵図』の「三沢村」にも「公神」と書いてあります。これを持ち出すと「なぜ、ここが藤島神社なのか」ということになってしまいますが…。
 藤島神社にある案内柱に「岡谷市指定史跡 川岸天竜河畔 諏訪明神入諏伝説の地」とあります。伝説地がなぜ史跡になるのかが不思議ですが、岡谷市のお墨付きなので、教育委員会の指示に従うのもよいでしょう。

対岸から見た藤島神社 24.4.19

 対岸から藤島神社を眺めると、今月は降水量が少なめとあって、天竜川は緑がかっていました。

藤島神社 24.4.19 社殿は、やや斜めの向きです。洩矢神社と対峙するように設置したのでしょうか。
 三沢区誌編纂委員会『三沢の歴史』では「昭和11年に釜口水門が作られ、諏訪湖との落差を付けるために天竜川を約1.5m掘り下げるまでは水位が現在より高かったので、天竜川畔に立っていた感じであったと思われる」と書いています。確認ができていませんが、二段の護岸石垣を現・旧としてみました。

改めて「荒神塚古墳」 25.9.28

 前出の『三沢の歴史』は、今年(平成25年)発刊された区誌です。三沢は旧三澤村で、藤島神社の地元です。さっそく新しい情報を求めて「荒神塚古墳」の文字を探しました。

(1) 古墳の成り立ちと名称
 (前略)その後の長い間の村人の信仰活動を通して、名称や塚の持つ意義などが複雑に絡み合っていった
 「三澤郷土誌天の巻」には……信ずべき古記録によると「陵明神(りょうみょうじん)」または「十五所明神」が正しい名称で、「荒神塚」とは後に合祀された三宝荒神のことを村人が呼んだのであり、正しい名称ではない……と記されている。
 高島藩五代藩主諏訪忠林(ただとき)の時に作成された「手元絵図」(一村限図)には「公神」(荒神の意か)と書かれている。現在でも祭神不明の小さな石祠が3基あるが、その一つは荒神様かもしれない。
(2) 現在の社名「藤島神社」について
 荒神塚古墳には古くから諏訪明神を祭神とする藤島神社が祀られ、建御名方命(諏訪明神)の入諏伝説が語り継がれてきた。(中略) ただ、両者が天竜川を挟んで争ったかどうかは不明な点がある。(後略)

 区誌ですから、相方の洩矢神社『由緒略記』に比べ、冷静かつ客観的に書いています。その好評価は別として、天皇陵のように古墳に神社があれば、被葬者を祀っていると考えることができます。しかし、この古墳を建御名方命(藤島明神)の墓とすることはできませんから、やはり、対岸にある洩矢神社との絡めで成立した新しい話(神社)であることは間違いありません。


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