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下馬社・下馬明神 茅野市高部 18.2.18

 下馬社は、上社の重要な摂末社である「下十三所」の一つですが、ネットや手持ちの資料で調べてもその所在が分かりません。過去にも何回か、『上社古図』に描かれている下馬沢橋周辺を探索しましたが、直近で農作業をしている人に尋ねても首を振るばかりでした。
 「磯並社祭当日は、下馬社参向から始まる」と聞いたことがありますから、現在でも現役であることは間違いありません。神社が神隠しに遭う話は聞いたことがありませんから、神社というより祠のみという状態と思われます。

 このところの寒さに、ストーブを大親友として引き籠もってばかりいました。今日は、この時期この時間では日最高気温と思われる5度ですが、徒労に終わっても運動不足の解消にはなると、下馬沢橋から、川を挟んで県道と相対する堤防道路を下流に向かってみました。
 “予定通り”下馬社とは対面がかなわなかったのですが、取りあえず足の筋肉はほぐれたと、合流した県道から引き返しました。「日野リネンサプライ」を左に見て、視線を戻した民家と物置小屋の間から下を見ると、木の祠と御柱が見えます。

下馬社
北側から見た下馬社の遠景

 近づくと、ケヤキの根方にも石祠があります。県道と平行する小道から両祠の正面を見比べますが、下馬社であるとの確証はつかめません。付近に類似の祠がないのを確認してから、新家は他所から移ってきた可能性が高いので、近くの旧家に助けを求めました。
 最近は、子供に道を尋ねるのもはばかれる時代となりました。見ず知らずの家のチャイムを押すのも勇気がいります。縁側伝いに来た女性は、(取りあえず)自分が人畜無害であると認識したらしく、表情が柔らかくなりました。「下馬神社を探しているのですが」と問うと、「右の祠が下馬」と、願望に近い予想通りの答えが返ってきました。

下馬社 ケヤキの根元にある祠は比較的新しいものでした。台座から「昭和6年」と読み取れ、地元高部の某さんが寄進したこともわかりました。
 この下馬社は、4月に諏訪大社から宮司の参向があります。そのためか、御柱の冠(先端部分)は正しく四角錐に切り落とされていました。

 「三角錐」は、諏訪大社の四宮(本宮・前宮・春宮・秋宮)と八剱神社だけに許されています。しかし、諏訪の平にある神社や祠は、諏訪大社の「冠落とし」を見慣れているのか、それを見習って三角錐に落としているのがほとんどです。因みに、左の木祠は三角錐でした。

下馬社は移転した

下馬社祭
守矢神長官史料館『復元模写版上社古図』

 左の『上社古図』では、神長官邸と下馬沢を挟んだ対岸に「下馬明神」があります。鳥居が描かれた道は旧道ですから、私が「下馬橋」の上流をいくら探しても見つけることはできなかったことになります。
 改めて県道に架かる「神橋」を眺めると、それを頂点としていますから、下馬沢が大きく氾濫して堆積したことがわかります。下馬社はその際に流され(埋まり)、現在地に移ったことになります。『諏訪藩主手元絵図』には見当たりませんから、再建されたのは最近のことかもしれません。

 下馬社に限りませんが、三十九所の鎮座地は、諏訪大社に訊けば即座に教えてくれるでしょう。しかし、(ちょっと古くなってしまいましたが)インディ・ジョーンズになりきって自力で探すのも楽しいものです。ただし、財宝やスリル、それに巡り会いの「め」の字もありませんが…。

下馬社祭 20.4.19

下馬社祭 「磯並四社祭」に先立って行われる下馬社祭です。神職は権宮司以下の3人でした。地元高部区では、氏子代表として神社役員(氏子総代)3人が参列していました。あとは、「LCV」のクルー3人と「諏訪大社」の腕章をつけたカメラマンだけです。15日の御頭祭とはうって変わった質素な例祭でした。この後、下馬沢川に沿って上流の磯並社へ向かい、磯並神事を行います。

下馬沢社

下馬沢社 下馬社とは関係ありませんが、かつては神長官の敷地内だったと思われる農家の畑に「下馬社」の祠があるのを見ることができます。下馬沢川の縁にありますから、こちらは暴れ川である下馬沢を鎮める意味合いがあるのでしょう。このサイトでしか紹介できないと思い取り上げました。