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擬祝(旧擬祝邸跡) 茅野市高部 20.4.14

 三輪磐根著『諏訪大社』では、「擬祝」は「こりのほうり」と振り仮名が付いています。「初めは小出氏で後に伊藤氏」とあるように、社家にも変遷がありました。

「ぎのほうり・ぎぼうり」と書いた本もあります。

高部の旧擬祝邸跡

 高部歴史編纂委員会『高部の文化財』に、「伊藤氏は昭和38年に家を処分し諏訪市へ移った。初めに造った邸の跡にはミシャグジ社がある」と、地元ならではの“消息”が載っていました。その屋敷跡にある祠が高部にあるというので探しに行きました。
 「峯湛」から下る「鎌倉街道」は、前宮近隣公園や道の新設などではっきりしませんが、下馬沢川に架かる橋近くから「大祝廟」の脇を抜ける部分は地図にも見い出せます。「ミシャグジ社は鎌倉街道の近く」とあるので、その道をたどって“近く”を見つけることにしました。
 斜面に造られた畑の中を心細げに延びる鎌倉道は、現在は土止めの石垣上という畑の縁です。「これは鎌倉廃道ではないか」とぼやきながら見上げると、本の写真にあった生け垣と鳥居が望めました。

擬祝屋敷跡

 道がありませんが、まだ耕作前なので畑を突っ切って生け垣の中に入りました。「伊藤氏が初めに居を構え、後に信長勢に焼かれた屋敷跡」ということですが、石祠だけが茅野市街を見下ろしているのを確認できただけでした。上写真は、「熊ノ堂(くまんどー)」墓地下の市道から屋敷跡(ミシャグジ祠)を背後から撮ったものです。

 10月9日、紹介するなら「目に優しい緑の写真の方が」と再び出かけてみました。しかし、やや色あせた緑になっていました。

擬祝御社宮司社 鎌倉街道側から祠の正面を撮りました。両写真とも傾いているのは私の腕(クセ)ではなく、これだけの斜面にあるからです。そのため、ここに居住するには、斜面の下方側に石垣を築いて平坦部を確保しなければなりません。その後、畑地を造成するには邪魔となる旧居の石垣を取り壊して一ヶ所にまとめたのが、祠下の塚となった石の山でしょうか。

移転した擬祝邸

 『高部の文化財』は、「移った邸は、西沢川沿いの水害のありそうな場所で、同じ高部の中でなぜこんな狭苦しい所へと疑問に思ったが、出奔(しゅっぽん)の後ではやむを得なかったであろう」と書いています。「出奔」は、『高部故事録』にある「神長官と坐席(※席次)の論を生じ他へ出奔、此時歴代の古文書等悉(ことごと)く紛失、屋形は頽廃(たいはい)せり」を読むとわかるでしょうか。

擬祝邸絵図 左は、神長官守矢資料館蔵『復元模写版上社古図』から切り取った該当する部分です。中央の川が下馬沢川で、右側の、道までしか描いてないのが西沢川です。上の「神長官」と擬祝邸でこの一画をすべて占めていますから、現在の様子からは疑問の声を挙げることになります。

擬祝邸絵図2 こちらは、諏訪史談会編『復刻諏訪藩主手元絵図』です。こちらも概念図のような絵図ですが、縮尺だけは現実に近いようです。
 『高部の文化財』に「モミジが一本だけ残る大道上の擬祝邸跡」とある写真をルーペで拡大すると、わずかに見える町並みの屋根と道路標識の頭からおよその位置がわかりました。こうなったら現地へ行くしかありません。

擬祝邸跡

 平成22年9月29日。県道脇で、写真にある「ガレージと隣の屋根」を見つけました。たまたま玄関先にいた夫婦に駄目を押してもらおうと、持参の本を指し示しながら聞いてみました。ところが、ここからは目と鼻の先という場所ですが、なかなか話が通じません。それが、何と、「擬祝」ではなく「伊藤さん」で手打ちができました。やはりこれも時代でしょうか。明治に消滅した五官の擬祝より、道向こうの「伊藤さん」のほうが馴染みがあったのでしょう。

擬祝邸跡 教えてもらった道は、神長官守矢史料館裏の小道でした。古びたアパートを見て、12年前の御柱祭を思い出しました。何と、前々回の里曳きで昼食休憩をとった場所でした。ここが擬祝邸跡だったとは…。敷地の一画には、まだ写真と変わらない太さのモミジがありました。

擬祝邸跡 写真は、「レストラン三ツ石」前の橋の袂で、西沢川を大きく入れて撮ったものです。アパートと車がある段上の敷地が擬祝邸跡です。これで、『諏訪藩主手元絵図』が極めて正確であることがわかりました。因みに、この西沢川は大祝の廟所(墓地)の前を流れている川です。

 足長神社から撮った写真があったので添付しました。擬祝邸跡は、建物ではなく矢印下の空地です。

擬祝邸跡