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権現の森(金山権現と青柳宿跡) 茅野市矢の口 22.8.30

 国道20号線を茅野市から富士見町へ向かう途中、「矢の口」の信号手前に(まだ)新しい玉垣と案内板がある神社があります。玉垣は平成16年頃に一新され、同時に神社の整備も進みました。案内板が立つと、立派な造りと長文の文言が盛んに「由緒」を訴えて来ます。信号待ちを利用して読むと「権現の森」と書いてありました。

金山権現

 いつもは車窓から流れ去っていく宿場の面影を求めるだけですが、「金沢宿」とあるその街道筋をかつての旅人の目線である徒歩で見ることにしました。まずは、自宅からはそのスタート地点となる「権現の森」の案内板を読んでください。

権現の森 茅野市指定史跡(昭和58年4月指定)
(前略) 文化二年(1805)に金沢宿より幕府に供出した『御分間御絵図御用宿方明細書上帳』に、「宿持鎮守 除地 拾六間四方金山権現森壱ヶ所石御祠御座候 但江戸ヨリ右之方往還ニ御座候」とあり、権現の森と石祠について報告がされている。
 参道正面に祀られているのがこの石祠で、建立は承応三年(1654)である。青柳宿が移転して金沢宿と名を改めた三年後のことである。金山権現は、祭神は金山彦命で、山の神である。武田信玄の開発した金鶏金山と関係が考えられ、当時すでに祀られていたのではないかと考えられる。
 石祠の左右には、江戸中期ころより庶民の信仰として祀られた御嶽座王大権現・庚申・矜羯羅(こんがら)童子と制(せいたか)童子の脇侍(わきじ)をともなう不動明王・摩利支天・甲子・秩父坂東西国巡礼供養塔・津島牛頭天王・大六天・如意輪観音・蚕玉大神・道祖神祠・石燈籠など大正期までの石造物二十数基が祀られている。
 また、石祠建立のころの植樹かと思われるサワラの古木が残存し、森に趣を添えており、信仰の場として、また憩いの場として今も江戸時代の名ごりを留めている貴重な場所である。
昭和五十九年一月 茅野市教育委員会 

権現の森 鎮守の杜といったコンパクトな「権現の森」の正面に立つと、御影石の玉垣に「三平グループ」会長と社長の名前が彫られています。「やっぱり」でした。
 実は、御柱年前年の平成15年に諏訪大社上社の鳥居・玉垣・狛犬の改修や新築が始まり、諏訪の平では、その全てに関わる大口寄進者の名前が話題になっていました。今はその本人が茅野市金沢の出身と知っているので、地元の「権現の森」にも彼の財力が“還元”されたと理解した訳です。この後に訪れた青柳駅近くの「穂屋木神社」にも、鳥居と玉垣・鬼子母神像が寄進されていました。

 やっかみ半分の「三平」の話になってしまいましたが、私の目的は、案内板にある350年前に建造された金山権現の「石祠」です。金沢村史刊行会『信州金澤の歴史』から、〔金山権現〕を拾ってみました。

武田氏と金鶏金山 (前略) 金沢宿上方(京都)方面の入口「矢の口」の「権現の森」に、青柳宿が現在地に移って金沢宿と名称を改めた慶安四年(1651)から三年あとの、承応三年(1654)に建立した「金山権現」の石祠が祀られている。この金山権現は金山で働いていた人たちが武田氏の滅亡後青柳宿へ下り、山にあった金山権現を移して祀ったものと伝えられている。権現の森は石祠・石碑・樹木を含めて、茅野市の文化財(史跡)として昭和五十八年に指定されている。
 (金山権現の旧鎮座地とされる)不動明王像のある北ノ沢沿い一帯や下流には、江戸時代以降に掘られた坑道跡や採金場跡などが残っている。金鶏金山の採掘は、戦国期から江戸時代へと続き、昭和初期までの約四〇〇年間に渡って断続的に採鉱されたが、今は廃坑となって久しい。

金山社 ほぼ同じ大きさに見える新旧二棟の石祠が前後に並んでいました。権現の森の主は金山権現ですから、参道の中心線を占める双方ともが金山権現の本殿でしょう。
 新祠は「三平絡みの更新」と見ましたが、神祠とあっては会長・社長の名前を探すことは控えました。すでに遷座が行われているはずですから、“後社”は空き屋の状態と思われます。指定史跡「権現の森」の中核を為す石祠なので、「撤去できないのでは」と考えてみました。

 古祠の背後に廻ると、御舎の後面に「二𣴎應(承応)三甲午年三月吉日」を確認しました。ところが「」が判読できません。旁(つくり)は「寺」とハッキリ読めますが、偏がわかりません。「特・持」のようにも見えますが、それでは「二」が繋がりません。「二」は「工」にも読めるので「工持」で「金山の工夫が寄進した」ということでしょうか。それにしても、私には前後に並んだ石祠の姿が奇異に映ります。

後に、「于時(ときに)」とわかりました。

青柳宿跡

 今回は、極一部ですが甲州街道歩きが絡んでいるので、金沢宿の前身「青柳宿跡」を紹介します。下写真は、「矢の口」の交差点を「青柳宿跡」方面から撮ったものです。わかりにくい変則4差路「Κ」を説明しても混乱を呼ぶだけなので、写真のキャプションは省きました。街道歩きに活用される方は、下段の「Google Map」を参照してください。

権現の森

 「権現の森」案内板に青柳・金沢宿の変遷も書かれているので、「金山権現」では省略した部分を載せました。

 江戸から甲府までの甲州道中(甲州街道)が下諏訪まで延長されたのは慶長十五年(1610)ごろである。そのころここは青柳宿といい、この権現の森の北西に家が並んでいたが、たびかさなる宮川の洪水や慶安三年(1650)の大火を機に南方の現在地へ移転し、翌四年に金沢宿と宿名を改めた。この宿場は、山浦方面や松倉峠(金沢峠)を越して高遠方面に通ずる分岐点として、交通上、物資の流通上重要な所であった。

 再び『信州金澤の歴史』です。

甲州街道制定と青柳宿 (前略)五街道制定のころは金沢宿(金沢区)、山屋(山崎不二夫家)の下を右に曲がり小松三郎左衛門処刑場跡付近・橋本屋前・権現の森へと出て、そこから左手に入り、青柳宿跡、御社宮司の小祠のあるところから右に折れて現国道二〇号へ出た。
(中略) 権現の森の西北にあった青柳宿は、約400メートルの範囲内で道路は現在地へ移転後も街道として利用されていたが、明治十五年から十八年の県道(現国道二〇号)の改良後は農道となり昨今住宅が建たってきたが、ほぼ原型を残している。(中略)宮川や矢の口川の度重なるはんらんによる水害や火災などによって、現在地(金沢区)に移転した。

 普通に歩いていると見逃すので、「GoogleMap」に青柳宿跡へのルートを貼り付けてみました。ただし、同じ甲州街道でも時代により変遷があることを頭に入れてください。

 現在は「(A−B)」には橋が無いので一旦国道に戻り、面倒でなかったら橋を渡ってから戻る方向の道に入り直します。後は、「」道を左折すると、右手に見える権現の森で“一休み”でしょうか。
 金山権現は「金山」でも、地元には「お金に通ずる御利益」の噂や伝承はありません。しかし、金属関係の仕事に携わる人は、承応三年の石祠への挨拶は必須でしょうか。

 青柳宿跡への道は「矢の口」の信号に従ってゆっくり渡るか、危険承知のダッシュで最短距離を走るかは本人次第です。国道から斜めに入る農道が、前掲の「矢印入りの写真」では手前の道になります。残念ながら「宿場“跡”」とあって周囲は田んぼです。何も残っていませんが、排気ガスと騒音からはしばらくの間だけ逃れることができます。

御社宮司社がある公園
左の樹下にあるのが、二棟の御社宮司社

 突き当たりの一画にちょっとした手作り公園があり「御社宮司の石祠」があります。“東方関係”の人は「必見・必参(拝)」ですが、ただの祠としか案内できません。
 このコーナーが旧青柳宿の「枡形」です。ここで右に曲がり、再び国道に戻ると「青柳宿跡小さな旅」は終わりです。

 実は、金沢宿の前身「青柳宿跡」がここにあるとは全く知りませんでした。通勤で毎日通る矢の口の信号が変則の四差路で、一番の細道が旧甲州街道であることも知りませんでした。

 金沢には、市営の立ち寄り湯「金鶏の湯」があります。「浴槽に微量の砂金が沈んでいる」という話が無いのは、「金鶏金山」の名前だけを頂戴したことにありました。