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矢崎祭「御狩之申立」 茅野市御座石神社 22.7.30

千頭鹿 武井正弘著『年内神事次第旧記』に目を通していると、「千鹿頭」の文字が飛び込んできました。『旧記』には「千鹿頭」はないはず、と強く目をしばたたかせたら、…「千頭鹿」でした。それでも「何かある」とその項目の「注釈」を参照すると、「五月会御狩を控えてのもので、千鹿頭神以来の伝承を踏まえた祝言である」と説明しています。最近「千鹿頭神社」を取り上げていたこともあって、「何か新しい解釈に繋がるものが」と一字一句をじっくり読むことにしました。

 直接には関係ありませんが、『諏方大明神画詞』から「矢崎祭」の段を転載しました。

廿七日、矢崎(やがさき)祭、饗膳已下(以下)ととの(調)うりて後、野火(※狼煙)をあぐ、煙を見て各大年宮(※大年神社)に詣ず、大祝布衣(仮)屋にあり、其の外祠官氏人皆芝居(※芝生の席)に着座、かねて数枚の盾を立てならぶ、軍陣発向(※出発)の儀式なり、盃酌已後(以後)犬追物人数不同、次に御斉所宮(※御座石神社)に詣ず、座席先の如し、神事饗膳(終)わりて大草(※ススキ)をとる、五月会参詣の人数をあいととのうる(相整うる)(※出席者をススキの籤で決める)なり、
諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書』

「御狩之申立」

 この「祝事(ほぎごと)」は、4月27日に行われた「矢崎(やがさき)祭」の内、「御最所」で奏上される祝詞です。矢崎祭は、現在の「大年社祭・犬射原社祭・御座石神社祭」の総称で、御最所(御斉所)は「御座石神社」に当たります。
 現在も同日に神事が行われていますから、宮司が奏上する「現在の祝詞」が気になります。しかし、(多分)一般的な文言に置き換わっているはずですから、この中世の祝詞に集中することにしました。文中の( )は同書の訓読文に付けられたフリガナです。

 御狩之事申立(もうしたて)
祝殿(※大祝)にハ桜之枝を持たせ参らせて、祝達(※五官)・神使(おこう)殿、皆桜枝持ち、斯々(かうかう)としと(※これ、このようにして)(し)て後宣たひ(宣まい。※申立を述べる)、神長殿すハきか原にたつ(※見張り)立て、かよくり(※谷間の急傾斜の場所)を真直様(まつたれさま※真っ直ぐ)に落(つ)る鹿を、弦もない弓にて、尻(しり)(※矢尻)もない矢を持ちて、千頭(せんつ)の鹿を止(とど)め。其後祝殿おゝは(※おう、それは)と仰らるゝ時、神長殿、勢沢(※傾斜の急な山陰の混地)の羽(は)(端)にたつ立て、真直様に落る鹿を、弦もない弓にて、尻もない矢を持って、万頭之鹿(まんづのしか)を止め、

「勢沢」と「すハきか原」

 注釈では「勢沢」を地形としていますが、私は「富士見町の瀬沢」を連想しました。再度読み直すと、「勢沢」と「すハきか原」は対句として書いてあることがわかります。
 念のために「すハきか原」を影印で“見る”と、「直きか原」とあります。『年内神事次第旧記』では「」は助詞として書いているので、「直は、きか原に」となりました。気が狂いそうになりながらも、12月の〔一、外縣惣領申〕に、三例の「立つ立て」を見つけました。何れも固有地名を並べていますから、「勢沢」と「きか原」は固有地名であると確信しました。ただし、「直は」が意味不明として残ります。これを「古は」の誤字とすれば繋がるのですが。
 隣は山梨県という富士見町「瀬沢」は、諏訪の南東端に当たります。近くの「休戸」と「横吹」には千鹿頭神社がありますから、この条件を踏まえると、諏訪の北西に「きヶ原」があれば「完全対応」になります。そのため、北限を「有賀の千鹿頭神社」にするか・松本の千鹿頭神社にまで持っていくのかと、思考のスケールは大きく膨らみました。しかし、肝心の「きヵはら」に近い地名でさえ見つけられず、大いなる白日夢に終わりました。

「祝言止め」

 注釈の「千鹿頭神以来の伝承を踏まえた祝言」が念頭にあったので、いきなり“あらぬ方向”へ飛んでしまいました。再び「申立」に戻ります。
 最後まで読むと「万頭之鹿を止め」と唐突に切れています。これは、省略か記載漏れがあり、前・後に「かけまくもかしこ・ぬかつかもうす」を付帯するのが本来のものと推測しました。ところが、読み返しながら書き進めると、「奏上する祝詞」というより“戯曲”のような匂いがします。
 再び、今度は複数に渡っている注釈を読むと、…。これは著者の力(注釈)をそっくりお借りするのが上策と、以下に転載しました。

大祝以下祝・神使たちが桜枝を持ち「かうかう(こうこう)とし」と斉唱すると、神長が「すハきが原に…(略)…鹿をとどめ」と唱えて止める。すぐ大祝が「おおハ」と合いの手で続きを促すと、神長は「勢沢の端に…(略)…万頭の鹿をとどめ」と祝言止めにして終える。

 まさしく「これ」です。私は「満開の桜花を付けた枝を持つ大祝・神使・五官の前で、『鹿を止め』と応答し、狩りの所作を繰り返す神長官」の光景が直ちに浮かんできました。「講釈師、見てきた…」がチラッと浮かぶほど、まるでその場に居合わせたような鮮やかな解釈でした。
 『旧記』は神長官・守矢家の記録です。過去の屈辱は心内に秘めて、「千鹿頭神から洩矢神に繋がる一族・呪術を操る偉大な存在」をアピールするために、このような演出を考えたのでしょうか。

 ここまで書いて、「神長官守矢氏は、大祝と同じ神氏」という説を思い出しました。簡単に紹介すると「(洩矢神の三代目)千鹿頭神から諏訪祭政の全てを学び取った(大祝一族の)守矢氏が、用済みになった先住の洩矢一族を松本に追放した」というものです。これに合わせると、大祝と神長官が、諏訪祭政の全てを完全に乗っ取った「祝賀の宴」を再現したものとも取れます。

鬼場

 『洲羽事跡考』に、「鬼場の由来」として「昔はおうばといいしを訛りて鬼場と書きしと阿部栗林いう」と書いてあります。筆者は「饗庭(おうば)が正しい」と結論づけていますが、私は、大祝の「おおハ」に注目しました。地元矢ヶ崎の人々は、生き神様の掛け声「おおハ」が「おうば」と聞こえたのでしょう。なぜ「鬼」を当てはめたのかはわかりませんが、阿部栗林さんの「おうば」を基にすると「鬼場は大祝の掛言葉」となります。因みに、「鬼場」は、現在も「鬼場橋」として残っています。

申立

 『旧記』が書かれた時代は、まだ「保元の乱」に始まる長期の戦乱前にあった平和な時代とあります。この頃が諏訪上社の絶頂期で、桜枝と弓矢を小道具にして優雅な掛け合いがあったのでしょう。しかし、その後の混乱で、文字通りの「申立」になったことは想像に難くありません。

御座石神社の「ドブロク・鹿肉・ウド」伝承

 写真がないのも寂しいので、文中の記事とは関係ありませんが、御座石神社例祭の「ドブロク祭り」を載せてみました。4月27日は、茅野市ではソメイヨシノの開花時とほぼ重なりますが、中世の気候と桜の品種は明らかではありません。

ドブロク祭り 御座石神社には「狩りに来た諏訪明神を、母がドブロクとウドと鹿肉でもてなした」という伝承があります。これに千鹿頭神を絡ませると、「花見に来た諏訪明神を、母がドブロクとウドを、千鹿頭神が鹿を捕ってもてなした」と言い換えることができます。「大当たり」なのか、それとも全く関係ないのか、御座石神社の北方約1.5キロの「埴原田」に千鹿頭神社があります。

 切り貼りして作ったような「大祝と神長官、建御名方命と洩矢神・千鹿頭神」の関係です。手持ちのキーワードだけでは“想像の固まり”に過ぎません。(永久に現れないだろう)「きヶ原」の出現(解釈)が待たれます。