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姫宮社 茅野市宮川 16.11.27

 平成16年の秋は、諏訪人にとっては特別な季節となりました。日曜日には必ずどこかで「小宮祭」が行われますから、朝には、花火の音が遠くから近在まで重なって聞こえてきます。
 地元のケーブルTV「LCV」も、毎日のようにその小宮祭の録画を放映しています。ある日、「姫宮社」の声にその画面を注視すると、盛んに「中河原」の名前が出てきます。私が知っている「姫宮」は小さな石祠で、御柱もせいぜい1mです。記憶と異なる社殿に、以前紹介した〔姫宮社〕の内容が間違っていたのではないかと慌てました。しかし、調べてみると、「前宮の姫宮社」とは全くの別神社だったので安心しました。
 こうなると、同名の「姫宮」が気になります。さっそくのつもりが11月にずれ込みましたが、秋の好天を選んで出かけました。

姫宮社

 中央自動車道下のトンネルをくぐると、すぐに姫宮社の杜が見えました。左隣には事業所がありますが、三方は田で囲まれています。つい最近までは、田んぼの中の一軒社だったようです。
 以下は、境内にある案内板です。

姫宮社
祭神 高志沼河比売命(産土神)

創立 寛永十二年(一六三五年)二月十五日と、中河原村の古文書に記されている。
 また、横内村の古文書、天文十二年(一五八四年)の御柱文書には「祭神 伍竜女宮大明神」と見えており、その当時横内村に祀られていたが、その後、宝暦九年(一七五九年)に中河原村に遷座されて村の水神・産土神として祀られ、伍竜姫宮といわれている、と記してある。

 何れにしても横内村と中河原村は、特に親密の間柄にあった。
 祭は三月十五日で、祭祀のあと、村中で甘酒祭をして楽しんだ。
中河原史談会
後述の「伍竜姫宮」を参考

 祭神を「高志沼河比売命」にしたのは、明治以降の“こと”でしょう。それはともかく、諏訪では「祭神が女神の場合は、御柱を建てない」という“約束事”があります。しかし、テレビ画面が伝えたように、神社の規模にふさわしい御柱がありました。また、広いとは言えない境内ですが、大小8棟の祠があり、それぞれの大きさに合わせた御柱がありました。

姫宮社の神灯 境内を探索する中で、竿が代用品であることから目に留まった灯籠があります。一基だけですが、その火袋(ひぶくろ)に真田家の家紋「六文銭」が彫られているのを見つけました。
 写真を撮ってから反対側を見ると、下部が欠けていますが、何と「武田菱」です。武田氏と諏訪のつながりは理解していましたが、連想した真田氏との関係は聞いたことがありません。

姫宮社の石碑 上写真では左にある「安永四年…」で始まる石碑です。彫りが浅いので読み取れる文字だけを強引に繋げてみると、「この地が洪水に遭い人馬が流され大石で埋まった」となりました。
 慰霊なのか復興の碑なのかはわかりませんが、案内板には「村の“水神”産土神として祀られ」とあり、字(あざ)も「中“河原”」ですから、この地が宮川の氾濫常習地であったことがうかがえました。
 灯籠と石碑には興味を惹かれましたが、予備知識がないので、それ以上の進展はありません。珍しく暖かい陽に感謝しながら姫宮社を去りました。

六文銭の家紋

武田菱 日向と日蔭で色が違ってしまいましたが、前述の「灯籠の家紋」です。“私の六文銭”では真田幸村に直結してしまいますが、その後に得た知識で、諏訪神社上社「権祝」の矢島家が「六文銭」を使っていることがわかりました。

姫宮社の拝殿は、諏訪大社の宝殿を移築 21.10.26

姫宮社拝殿 写真の入れ替えを検討中に、拝殿が諏訪大社上社の「宝殿」であることに気が付きました。
 高床の“段違い”に「もしや」と思って確認したら、まさしく「宝殿」でした。屋根が赤いトタン葺きで、壁と柱が白く塗られていたので全く気が付きませんでした。

伍竜姫宮 28.9.16

 『諏訪郡諸村並旧蹟年代記』〔中河原村〕からの抜き書きです。

鎮守は五龍大権現命、號(号)不知(しらず)、又姫宮大明神・小玉姫命、氏神祠無之(これなき)、此宮今度立ル、寶歴九年江戸寺社方より御觸(触)(して)、御郡中(※諏訪郡中)宮社不残(のこらず)書上候様(そうろうよう)書上一札ニ、當(当)村之うふすな伍龍姫之宮と申候(もうしそうろう)、ほこら社人一切無御座候(ござなきそうろう)、以上、
 寶歴九卯年九月廿日 名主篠右衛門
諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書 第三巻』

 冒頭の案内板を併読すると、産土社は度重なる洪水で流され、宝暦9年まで社殿が無かったことがわかります。そこに幕府からの調査依頼が来て、急遽、横内村の五竜姫宮を遷座して(譲り受けて)神社を建てたということでしょう。