「茅野市高部とは」と書き始めましたが、これから紹介する『高部の文化財』の巻頭にある一文が簡潔明瞭なので、それに代えさせてもらいました。
「地元の図書館なら寄贈されているはず」との思惑通り、茅野市図書館に『高部の文化財』とその補足版とも言える『続・高部の文化財』がありました。コタツにあたりながら目を通すと、〔守矢家の屋敷神〕とある小見出しがあります。
『続・高部の文化財』でも同じ記述があります。
この書は、茅野市宮川の高部区が発刊したものです。市町村の『誌・史』と違い編集者の主観が前面に出ていますから、事実か否かはともかく、強く興味を引かれる内容となっています。
諏訪としては大雪になる30センチが溶けぬ中、「三千年の…」という碑の真後ろに立ちました。
その先を見通すと、生活の場としての神長官屋敷でした。『高部の文化財』を引き合いに出すと、「神長官とその家族をターゲットにした」となります。ミシャグジは祟り神ですから、それは避けたのでしょう。
この写真は、神長官屋敷の隅にあるイチイの生け垣です。入口を通して見えるのが、屋敷神の「岐神社」です。御頭御社宮司総社と左右に並ぶ祠と違い、隠すように囲った垣根が奇異に映ります。プライベートな一画として、目に触れにくくしているのでしょうか。
生け垣内に入ると、南西側には、「大祝の恨み」に対抗するために設置したという祠がありました。『高部の文化財』には「千歳社(ちとせしゃ)」とある神宮寺石の祠です。大祝の「三千年」に対しての(永遠の意味合いもある)「千歳」なのでしょうか。
大祝廟からは一段下がっているのでその方向は見通せませんが、移転したとは言え、祠の向きが内向きになっているのが解せません。
左が、「神長に向けた」とされる碑の正面です。雪で埋まった下部が気になりますが、右「諏方一族建御名方神」、左「諸々之霊位殿伯姉」と彫られています。
これを読んで違和感を感じるのは、私だけでしょうか。序列や「殿伯姉」が理解できないからです。「諏方一族/建御名方神大神霊/諸々之霊位」の方がスッキリすると思うのですが、大祝の末裔となる人々にはこれが正しい“書き方”となるのでしょう。
知らずにいても一向に差し支えのないローカルネタを『高部の文化財』に求めたのですが、まさに、この本は期待通りでした。
どこもかしこも覆っていた「白」がワイパーの一拭きで消えてしまったかのような4月のある日、決着をつけようと大祝廟へ向かいました。
スイセンの黄花が嬉しい春日ですが、目的があっても、(他人の)墓地の中を歩き回るのははばかれます。人目を気にしながらも、「不動明王」を見つけました。
さっそく、線刻の面を自身の背中に合わせてから正面を見ると、見事にイチイの生垣が見えました。
しかし、墓石の裏に不動明王を彫るなど聞いたことがありません。そのため、何かの意図を持っているのは明らかです。それを「神長官への当てつけ」とした発想には、改めて「然(さ)もありなん」と感心してしまいました。
不動明王は、文政の元号がある墓石に彫られています。あと50年で明治という時代ですから、大祝の“高齢化”が進み、精進潔斎も大幅な簡略化が進んでいたと思われます。全く違う目的とも思えますが、それでも、先祖が長きに渡って受けた“大祝いじめ”に一矢(いっし)を報いた、という話も頷けます。
茅野市神長官守矢史料館編『神長官守矢史料館のしおり』にある、小項の[屋敷周辺の地形から]を転載しました。抜粋です。
これを読んで、その祠が、神長官屋敷に今もある「千歳社」であることに思い当たりました。「千代=千歳」ですから、正に符合します。大祝家の不動明王に対して、神長官側は千代の宮の祖霊社を楯にしたのでしょう(ほんとかなー…)。