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大祝と神長官の対立 茅野市高部

 「茅野市高部とは」と書き始めましたが、これから紹介する『高部の文化財』の巻頭にある一文が簡潔明瞭なので、それに代えさせてもらいました。

『高部の文化財』刊行に寄せて 茅野市長矢崎和広
(前略) 高部区は、地理的に諏訪大社上社本宮と前宮の中ほどに位置しており、かつては神長をはじめとする諏訪神社上社の神官が居住した地域でありました。神長官守矢家邸は今日に続き、県宝「紙本墨書守矢家文書」をはじめとする守矢文書のほか、市有形文化財や史跡などの文化財が保存されています。また、諏訪上社に関係する文化財だけでなく、早くから人々が生活した跡や交通上の要衝を示す文化財も豊富であり、山ふところに抱かれた地理的環境とあいまって、まさに歴史の里の観があります。(後略)

高部歴史編纂委員会編『高部の文化財』

 「地元の図書館なら寄贈されているはず」との思惑通り、茅野市図書館で、『高部の文化財』とその補足版とも言える『続・高部の文化財』を見つけました。自宅で、コタツにあたりながらさっそく目を通しました。返却日は3週間先ですから、まず興味のある箇所から拾い読みを始めました。その中で、〔守矢家の屋敷神〕とある小見出しに目を留めました。

(前略)入口左側の祠にはいわくがある。大祝が前宮からやがて宮田渡の現在地に移り住んだというその昔のこと、ついては大祝家の墓地が必要となり、現在御廟と呼ばれる場所を大祝によこせと強要され、やむなく守矢家の墓地は百米上方の熊の堂と呼ばれる高部村の共同墓地へ移っていった。そのうえ墓石の裏神長に面した所に朱で不動明王をほり込んで、神長をにらめつけたという。
 大祝対神長の対立・抗争の歴史の一頁にすぎないが、神長でも対抗して屋敷つづきの畑の中央に石積みし、その上に祠を造りにらみかえしていたが、戦後この畑を耕作者が水田に作り替えた。祠は行き場に困り、神長の屋敷神の生け垣の中に左側を北向きに祀ったのがいわれだと言い伝えられている。洋の東西を問わずナンバーワンとツーの権力抗争の歴史は今もかわらない。

 『続・高部の文化財』でも同じ記述があります。

(前略)大祝は位は神長より上だと威張っているが、実際は神長にこき使われていると遺恨に思っていたであろう。酉の祭りなどには一ヶ月前から呼ばれて、神長の精進屋に入れられ、死なない程度の食事を与えられ、出て来た時はひょろひょろして神様がとりつき易くなっていたようで、まして子供のこと(大祝は五、六歳から十五、六歳まででその後は隠居した)なので、どこかで仕返しをしてやろうという気持ちが強かったと思われる。
 祭りの中でも、神長がミシャグジ神を大祝に降ろしたり上げたり、全く木偶(でく)のように扱われたのである。意趣はそれだけに止まらない。墓石の神長に向いた方に不動尊を彫りつけ、睨み殺してやるという勢いである。神長は塚を造って上に神様を置き、これを防いだという次第である。今でも大祝近縁の方が、白ミカゲの石碑を神長に向けて建ててあるのを見ると、その思いが並々ならぬものであったことがわかる。もともと神社は呪詛を防ぐために建てられ始められたといわれるので、こうした行為も肯けるものがある。
 いずれにせよ、これは神長が下位にいるようであるが、事実上は上に立って祭祀を取りしきってきたことを示す有力な証拠である。

 この書は、茅野市宮川の高部区が発刊したものです。市町村の『誌・史』と違い編集者の主観が前面に出ていますから、事実か否かはともかく、強く興味を引かれる内容となっています。

大祝対神長の対立 20.2.5

御廟と神長官邸 諏訪としては大雪になる30センチが溶けぬ中、「三千年の…」という碑の真後ろに立ちました。
 その先を見通すと、生活の場としての神長官屋敷でした。『高部の文化財』を引き合いに出すと、「神長官とその家族をターゲットにした」となります。ミシャグジは祟り神ですから、それは避けたのでしょう。

神長官の屋敷神「岐社」 この写真は、神長官屋敷の隅にあるイチイの生け垣です。入口を通して見えるのが、屋敷神の「岐神社」です。御頭御社宮司総社と左右に並ぶ祠と違い、隠すように囲った垣根が奇異に映ります。プライベートな一画として、目に触れにくくしているのでしょうか。

千歳社 生け垣内に入ると、南西側には、「大祝の恨み」に対抗するために設置したという祠がありました。『高部の文化財』には「千歳社(ちとせしゃ)」とある神宮寺石の祠です。大祝の「三千年」に対しての(永遠の意味合いもある)「千歳」なのでしょうか。
 大祝廟からは一段下がっているのでその方向は見通せませんが、移転したとは言え、祠の向きが内向きになっているのが解せません。

大祝御廟「大神霊」 左が、「神長に向けた」とされる碑の正面です。雪で埋まった下部が気になりますが、右「諏方一族建御名方神」、左「諸々之霊位殿伯姉」と彫られています。
 これを読んで違和感を感じるのは、私だけでしょうか。序列や「殿伯姉」が理解できないからです。「諏方一族/建御名方神大神霊/諸々之霊位」の方がスッキリすると思うのですが、大祝の末裔となる人々にはこれが正しい“書き方”となるのでしょう。

 知らずにいても一向に差し支えのないローカルネタを『高部の文化財』に求めたのですが、まさに、この本は期待通りでした。 

大祝廟の「不動明王」 20.4.4

 どこもかしこも覆っていた「白」がワイパーの一拭きで消えてしまったかのような4月のある日、決着をつけようと大祝廟へ向かいました。

 スイセンの黄花が嬉しい春日ですが、目的があっても、(他人の)墓地の中を歩き回るのははばかれます。人目を気にしながらも、「不動明王」を見つけました。

大祝墓地の「不動明王」
「不動明王」(画像処理をしてあります)

 さっそく、線刻の面を自身の背中に合わせてから正面を見ると、見事にイチイの生垣が見えました。
 しかし、墓石の裏に不動明王を彫るなど聞いたことがありません。そのため、何かの意図を持っているのは明らかです。それを「神長官への当てつけ」とした発想には、改めて「然(さ)もありなん」と感心してしまいました。

 不動明王は、文政の元号がある墓石に彫られています。あと50年で明治という時代ですから、大祝の“高齢化”が進み、精進潔斎も大幅な簡略化が進んでいたと思われます。全く違う目的とも思えますが、それでも、先祖が長きに渡って受けた“大祝いじめ”に一矢(いっし)を報いた、という話も頷けます。

千歳社は「千代の宮の祖霊社」 28.12.1

 茅野市神長官守矢史料館編『神長官守矢史料館のしおり』にある、小項の[屋敷周辺の地形から]を転載しました。抜粋です。

墓地T(千代の宮)
 屋敷からさらに西南、薬師堂近くに神長の墓地がもともとはあり、埋葬方法は土葬でした。しかし、諏訪頼広が分家し、大祝職に就き、宮田渡(みやたど)へ住まわれました際、この地を墓地として求められ、守矢家の墓地は熊野堂へ移りました。旧廟所は千代の宮といわれ、その祠があったそうですが、今はその祠は失われています

 これを読んで、その祠が、神長官屋敷に今もある「千歳社」であることに思い当たりました。「千代=千歳」ですから、正に符合します。大祝家の不動明王に対して、神長官側は千代の宮の祖霊社を楯にしたのでしょう(ほんとかなー…)。