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藤島社は“旧田部村の産土社” '13.2.24/'18.3.11 改稿

 松本藩の地誌『信府統記』の〔諏訪郡〕に、「当社の祭礼は毎年三月酉の日なり」で始まる「御頭祭」が書かれています。関係する部分だけを転載しました。

根曲りと云う御太刀なり、(中略) 此の劔にて藤を切る、惣じて神事に用ゆる藤は田部村に藤島社と云う所の藤を定めて用ゆ、
信濃史料刊行会『新編信濃史料叢書』

 ここでは根曲りの太刀と藤刀を混同しています。これは(他藩の調査だから)許せるとしても、「藤島社は田部(たんべ)村にある」という記述はまったくの誤りとしていました。それが…。

田部村と神宮寺村

 下図は、諏訪史談会編『復刻諏訪藩主手元絵図』にある「田部村」の一部です。左上に「ゑ川(※江川・枝川)先神宮寺分」「大橋已(より)道先神宮寺」と読めるので、斜めにカットされた川と道が神宮寺村との境であることがわかります。

諏訪藩主手元絵図

 その村境に鳥居と社殿が描いてありますが、現在の諏訪市田部にはそれに相当する神社はありません。その不思議さに、読めないので無視していた「で囲った文字列」を拡大してみました。

諏訪藩主手元絵図 「もしや」と閃いて先頭4文字を「神宮寺村の藤嶋社」に並べると「藤嶋」が一致し、「藤嶋明神」と読めます。それに伴い、「藤嶋明神田部村うぶすな(産土)」と解読できました。そうなると、この藤嶋明神が『信府統記』で言う「田部村の藤島社」と重なります。

神宮寺分田地 一方で、川と道に掛かった斜めの - - が気になります。左が「神宮寺(と)(す)田地」で右が「田部村田地」ですから、これは境界線で、藤嶋神社は神宮寺村にあることになります。
 ところが、田辺村では「藤嶋神社は田部村の産土社」と書いています。一体、どうなっているのでしょうか…。

「田部村に藤島社」

 改めて絵図全体を眺めて、中央部(藤嶋明神の下)に書かれた「宮寺分田地」が、周囲の状況から見て「宮寺分田地」の誤記だと気がつきました。こうなると、左下では用水路と宮川に挟まれた細長い土地が田部村ですから、江川と田部用水汐(せぎ)の内側=絵図の大部分が(田部村に食い込んだ)神宮寺村ということになります。
 その中に「田部村田地」から越境した「藤嶋明神田部村うぶすな」の文字ですから、田部村では“藤嶋神社はおら方のもの”と考えていることになります。言い替えれば、「藤嶋明神の社地は、田辺村の飛地」ということでしょう。この流れでは、私が疑問を呈した「田部村に藤島社」ですが、『信府統記』は正確に捉えていたことになります。

藤嶋社の維持管理は、神宮寺・大熊・田部の各村が奉仕

 『諏訪郡諸村並旧蹟年代記』に、「神宮寺分田地」と同じような言い回しの「一、神宮寺村分藤嶋社」を見つけました。

宮は大熊村より出る、祭礼御柱建てるは田部村、地元へ酒遣わし候由、
諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書』

 「村分」が正確に理解できていませんが、この時代では「藤嶋社は大熊村が造り・御柱祭を含めた祭例は田部村が負担・神宮寺村は酒(代)を出すだけ」ということでしょうか。
 これは、宮川の氾濫などで三村の境界が一定しなかったために、藤嶋社の地籍が複雑化したのかもしれません。その結果、藤島社の維持管理は、神宮寺・大熊・田部の各村が三つ巴になって行ったと言えそうです。

藤島社は、かつては田辺村にあった

 長野県教育委員会刊『諏訪信仰習俗』から、〔一、小宮のおんばしら〕の一部を転載しました。これより、「藤嶋→藤島・田部→田辺」と表記します。

藤島神社 ここの祭祀及び御柱は、隣村の田辺部落と共同で行う。明治時代迄は両方で四本宛建てたというが、大正時代に入り話し合いにて二本宛持ち寄って、計四本建てるようになり現在に及んでいる。例祭日(ママ)十一月二十五日である。
 ここも現在の位置は神宮寺区地籍であるが、田辺部落も近くにあり、聚落も直ぐ近くにあるので往古の姿を知る必要がある。
 思うに古は所在地附近は田辺村のものであったが、後に地籍を決める時、神宮寺地籍となったものではなかろうか。

 御柱ではありませんが、諏訪大社の神職が参向する11月25日の「藤島社祭」は、神宮寺区と田辺区の両関係者が参列しています。そのため、現在も、神宮寺村と田辺村の旧慣が守られていることになります。『諏訪藩主手元絵図』の表記を完全に理解できたわけではありませんが、「藤島社は、かつては田辺村にあった」と断定できそうです。

 抜粋です。

7.諏訪神社と田辺
 明神垂迹ゆかりの藤島神社は分掌のために退転したこともあったが、明治の末期まで担当奉仕してきた。田辺の氏神とも云われ、藤島大縄と呼ぶ、田辺からの参宮道路がある。
諏訪史談会『諏訪史蹟要項十七 諏訪市湖南篇』