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福島御頭御社宮司社 諏訪市中洲 21.4.15

 「御頭」が付く御社宮司社が諏訪には幾つかあります。現在は「それって何」となっている「諏訪七島」ですが、その一つである「福島」に鎮座する「福島御頭御社宮司社」がその一社です。
 この神社が「福島公民館の近くにあり、本殿が立川和四郎富昌作で市の文化財に指定されている」ことは知っていました。ところが、長野県神社庁の「神社一覧」で探すと、「字(あざ)福島」に該当する御社宮司社はありません。試しにネット地図で「福島公民館」を表示させると、その近くに「コーポ開戸」があることから、神社一覧の「諏訪市大字中洲字開戸」が福島御社宮司社の住所と知りました。
 「親郷」の「旧福島村」ですが、現在の住所表示では「字」にも「福島」が使われていないことを知りました。しかし、「開戸御社宮司社」では馴染めません。やはり「福島+御頭御社宮司社」としました。

福島御頭御社宮司社

 御頭祭の“昼休み”を利用しての参拝ですから、余りの上天気に、諏訪大社本宮からの早足では汗をかいてしまいました。

福島御頭御社宮司社

 地図ではピンときませんでしたが、公民館を目にすると「何だ、ここだったの」という場所でした。すぐ横が幹線道路なので、知らずに何回もかすめていたのを知りました。
 「桜が咲き始めると御頭祭(御頭祭の日が来ると桜が咲く)」と言われますが、今年はそれを祝うように“ところ構わず”満開でした。ここ御社宮司社の桜も、まだ花びらを散らすことなく大きく梢を揺らしていました。

 境内にある案内板から、本殿の説明を省略して転載しました。

 今は福島の鎮守様である。八剣社とも言われていた。かつて福島郷は御頭祭の親郷(二五五石)であり、この小さな村が枝郷を連れて御頭祭をつとめてきたのは、大祝の一族福島氏が地頭であったからであろうか。

立川和四郎富昌「福島御頭御社宮司社」 扉の格子を通してという制約があるので、ワイドでも社殿の全体像を収めることができません。さらに、私の背中は桜がまぶしいほどの陽光ですが、カメラの目は「暗いよ」と警告を発しています。それを無視し、息を止めて静かにシャッターボタンを押しました。
 目的の写真を確保したので、諏訪市教育委員会が設置した案内板の前に立ちました。しかし、いくら高名な立川和四郎富昌棟梁でも、苦手な専門用語に囲まれていては…。斜めに読み飛ばしました。しかし、結局は、自宅でその「案内」をじっくり読むことになりました。
 このサイトでは、私のこだわりから、案内板の内容を写真ではなくテキストに変換しています。メモ代わりの写真から文字を起こして振り仮名を加えたのが、以下の“案内板”です。

福島御頭御社宮司社
諏訪市有形文化財
 立川流二代立川和四郎富昌の建築で、嘉永二年(1849)八月三日に上棟した。一間社流造で向拝に軒唐破風(はふ)をつけ、屋根は柿葺(こけらぶき)である。
 正面向拝柱の虹梁(こうりょう)上の通玄(つうげん)仙人の持つひょうたんから駒を出す彫刻、海老虹梁の上り竜、下り竜をはじめ、蟇股の粟穂に鶉(ウズラ)、脇障子の鉄枴(てっかい)仙人・費張房(ひちょうぼう)仙人の彫刻、さらに、妻飾りの大瓶束(たいへいづか)の力神などすべての意匠を彫刻で埋めている。
 富昌の精密精緻な建築彫刻の特徴をよく表す代表的な建築の一つである。

立川和四郎富昌の彫刻 正面の彫刻しか見えませんから、案内板にある「向拝柱の虹梁上の通玄仙人の持つひょうたんから駒」のアップを紹介します。彫刻の細部については、誉め言葉を本や案内板から流用するのはイヤなので、「見ての通り」としました。

御頭御社宮司社・八剣社・鎮守社 (24.7.1 追記)

 中洲公民館刊『中洲村史』では、以下のように書いています。

御頭御社宮司社 福島村の鎮守で、以前あるときは八剣社といわれていたこともあるが、村がかつて御頭祭の親郷であったから御頭御社宮司社に違いない。その頃枝郷としては…

 嘉禎3年(1237)の『祝詞段』には「福島鎮守レイノゴゼ(禮の御前)」が見えます。現在の本殿が造営された百年前の『諏訪藩主手元絵図』には「鎮守」と書いてあり、近隣に「礼ゐの御前」があります。また、立川和四郎富昌が上棟式のために作った木槌には「八剱大明神上棟槌」・棟札には「奉再建八剱宮」とあるので、八剱神社ということになります。

 御頭御社宮司社は、本来は、御頭郷の当番年だけに“使われる”神社です。鎮守社や八剱神社とは別物のはずですから、『祝詞段』に出る「福島鎮守レイノゴゼ」は「福島鎮守“は”レイノゴゼ」と読むべきでしょうか。それとも、鎮守社(は八剱神社)とレイノゴゼは切り離すべきでしょうか。ウーン、何分にも昔のことで…。
 『祝詞段』は、口に出す詞を文字に直したものなので、句読点がない曖昧さが、後の時代に混乱をもたらす原因になったと思われます。それとも、余人には理解できない“事情”があるのかもしれません。