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字に残る「古」宮川(古川跡) 24.7.10

 『中洲村史』を読んで、大祝邸の周辺に、河川改修前の宮川が「古川・古川跡」の字(あざな)で残っていることを知りました。その後、旧中洲村の航空写真をネットからダウンロードしたところ、まだ耕地整理前の景観を留(とど)めていたので、旧字と比較できることがわかりました。

 「語り継ぎ神宮寺の民俗」刊行委員会『語り継ぎ神宮寺の民俗下巻』に「宮川の今昔」があります。

 (前略) 山本郷(神宮寺集落の前身)の裏田から西山寄りの東湖岸水稲耕作にあって、千古の灌漑をうるおし続けてきた宮川水系であったことを思うべきであろう。
 所が、この宮川は神宮寺というよりも、むしろ上社大祝にとって大きな役割を果たしてきた。則ち大祝は前宮から神戸の鷹戸尾と変わり宮田渡へ移るについては、宮川を濠と見立てて設計されたというのである。前頁の『上社古図』にあるように大祝邸の裏は宮川になっている。(中略) 当時も毎年のように見舞われる宮川氾濫により大水の前後処理、それより、何より大切なことは神宮寺田圃の水利関係であった。
 この歴史的な大祝と宮川の関係も、文化四年(1807)の大改修によって新井村境から中金子村境までの曲がり屈折がほぼ直線となって、宮田渡村周辺と上金子村が大変貌をとげ大祝と関係がなくなった。

諏訪藩主手元絵図 引用文に出る 『上社古図』の一部を、神長官守矢史料館蔵『復元模写版上社古図』から転載しました。宮川が大祝屋敷の全体を囲むように描いてありますが、右上の橋を見てわかるように、絵図特有の表現なので鵜呑みにはできません。

一、同年(明和九年)八月丸田地宮田渡村水三尺程付(浸き)
宮田渡やしき(※大祝屋敷)床かき居る、下金子草庵殿より舟二艘御見舞としてよこす、五官両奉行浦土手へつめる、

諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書』から「神長官古日記書抜」

 この辺りは水害常習地のはずです。なぜこの地に前宮から大祝屋敷を移転したのかという疑問がありますから、川を「濠(堀)」とするのは現実的ではないかもしれません。

 諏訪市史編纂委員会『諏訪市史中巻』に「風水害とその対策」があります。「河川改修年表」から「宮川」分だけを抜粋しました。

文化4年 宮川を新井村境から中金子村境までの曲がりをとり、真直に掘替える

文化5年 神宮寺村の岩波与次右衛門、藩へ願って宮川の改修をし、古川跡1万坪を一手に払い下げられ開発する。

 同書の「新川掘替」です。

 宮川でも、文化四年神宮寺村と上金子村の境にあった曲りをとり、新井村境から中金子村境まで新川が開削された。その結果宮川の北側にあった上金子村は、宮川の南側になった。川の跡は、古川跡の地名を残している。

 これらの文献から、神宮寺村とその隣村の境が入り組んでいる「不思議」が、河川改修によって生じたと理解できました。

新川(田辺堰)

新川「田辺堰」

 『上社古図』にも描かれている「今橋」です。現在は、写真のように古川跡(旧宮川)に沿って用水が流れています。地区によっては「蛍の舞う新川」としてコンクリート三面張りの改修をせず、昔ながらの景観を保っています。

古字からたどる古川跡

 ここから本題に入ります。『中洲村史』に折り込まれた「中洲字界図」にある字「古川(三ヶ所)・古川跡」を探し出して航空写真の“黒い線”に重ねると、今まで“見えなかった”川筋が浮かび上がりました。その中で、「大曲」も関係していることがわかりました。
 矢印を付けて川の流れを追ったのが以下の航空写真です。「上川・宮川の沖積地には、自然堤防の上に集落が発達した」ことがよくわかります。

『諏訪市史』の記述
古川の航空写真
国土交通省『国土画像情報』1947/10/2

 川幅(河川敷)も、そのまま道や畦・用水路で囲まれた形で残っていることがわかります。また、右下の分岐部周辺にある「久保田」を“窪んだ田”とすれば、この辺りの川幅はかなり広かったことも推察できます。
 前出の大祝邸の絵図ですが、写真右下の大祝邸()を参照すると、宮川と西沢川を合成して現実の敷地に合わせて縮小すれば、かなり正確とも言えます。また、諏訪神社(現諏訪大社)上社の本宮が、諏訪湖の満水や上川・宮川の氾濫で水に浸かった記録は多くありますが、航空写真で見ると“なるほど”と納得してしまいます。

 各本で「古川」の存在は漠然と知っていました。しかし、その跡であっても航空写真でこれほどの確認ができるとは驚きました。こうなると、米軍は“いい仕事をした”とも思えてきます。