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洩矢大神古宮跡 岡谷市川岸 29.3.26

古宮跡

 『洩矢大神御舊址』でも取り上げましたが、『諏訪藩主手元絵図』(以下『手元絵図』)の〔橋原村〕に、「古宮跡」が書いてあります。洩矢神社の旧鎮座地と断定した私ですが、風の便りにも伝わってきませんから、現在は跡形もないと思われます。

洩矢神社古宮跡
諏訪史談会『復刻諏訪藩主手元絵図』(部分)

 最近、『洩矢神社』を書き直したことで、古宮跡に異常な執着心を持ちました。
 そこで、距離も方角も大ざっぱな絵図ですが、洩矢神社からの道()が特定できたので、少し探ってみることにしました。その道と川()の交点辺りに何か残っているのではないかと考えたからです。

 しかし、その川自体が存在しておらず、失意のまま橋原から戻りました。改めて『手元絵図』を見直すと、左方に取り入れ口があるので、川ではなく用水路であると気が付きました。地図では河川の表示がないので、目の前に水量豊富な天竜川があっても、田畑や生活用水に苦労したのでしょう。

川岸村全図
長野県『信州デジ蔵』から転載

 明治11年の長野県庶務課『諏訪郡村誌(草稿本)』にある〔川岸村全図〕の一部です。
 用水路()は『手元絵図』と同じ場所・形で描いてあるので、明治初期まで存在していたことは間違いありません。その後、天竜川の河床掘り下げによる水面低下で取水ができず、宅地の境界や道路に変わったと考えました。

用水路を探す

添付した地図には、一部着色し名称を書き入れてあります。

 現地を歩いた中で、用水路が山際に向かってから、大きく戻る形で天竜川に注いでいる形に疑問を持ちました。そこで、地理院の地図を参照してみました。

「洩矢大神御舊趾」
『地理院地図(電子国土web)』

 水路には勾配が必要ですが、取りあえずは無視して、天竜川に一番近い760mの等高線()を追ってみました。
 “核心部”は二度にわたる線路の敷設で大きく変わっていますが、右は釜口水門まで川端を通り、左は洩矢神社に近づいてから鎌倉街道を横切り、最後は志平沢(しびらざわ)に突き当たります。
 この等高線に水路の勾配を加味し、その終末が志平沢に合流していたと考えたら、江戸と明治の絵図とまったく同じ形になりました。

 この地図を手に、再び橋原の地を訪れました。ところが、現地で『手元絵図』にある「薬師堂」を見つけ、それを地図に当てはめたら、水路は標高760mよりかなり低地でなければ辻褄が合わなくなりました。
 これで、今まで水路跡ではないかと睨みながらも、天竜川に余りにも近いので保留していた()が、絵図の用水路に重なります。実際に、軽トラなら左右をこすりながらも通過できるその道を歩いてみれば、これを用水路跡とすることに疑問は生じません。

 この水路跡は絵図二枚とは大きく異なりますが、古宮跡が川辺にあるということでは、“藤島神社との関係”からは最適の場所となります。しかし、現在はT字路という“その先”を探索しようとしましたが、民家の敷地内とあっては、覗き込むことさえはばかられます。薬師堂が確認できたことは大きな収穫となりましたが、今回もスッキリしないものが残りました。

 昭和23年の航空写真を見ても大差ないので、「この道が用水路跡」を受け入れることにしました。

懲りずに、古宮跡への再アプローチ

 『GoogleMap』を拡大すると、洩矢神社の参道が二本線で現れます。これを見て、「参道の延長線に古宮があったのではないか」と閃きました。つまり、「本殿は、かつての鎮座地を向く方向に造営された」ということです。
 さっそく「マイプレイス」を作成して線を引くと、いい感じで、捷径橋(しょうけいはし)の袂に延びました。


 その対岸が藤島社ですが、こちらも後退したとありますから、当時の場所は不明となります。三沢区の“正史”である『三沢の歴史』は洩矢神社との関係を懐疑的に捉えているので、私は、たまたま近くにあった古墳に荒神社が祀られていたので、その隣に移したと考えました。

 私が推す古宮跡は、捷径橋の袂としました。【捷径】は「近道」の意ですから、かつての天竜川は、この橋辺りが一番狭かったと思われます。それが、両社の藤の絡まりまで発展した話となったのでしょう。