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磯並社・磯並大明神 茅野市高部 18.4.22

磯並社 「諏訪七石」の一つ「小袋石」が、下馬沢川の上流にあります。その磐座を崇めるように、「上十三所」に含まれる摂末社四社が展開しています。左の神長官守矢史料館蔵『復元模写版上社古図』では、と説明するよりを見てもらった方が間違いないでしょう。
 現在は、図中の四社は石の祠で、小袋石の下からほぼ等間隔に斜面に沿って並んでいます。ただし、「日月神」は現在跡形もありません。その中で中核となるのが「磯並社(いそならべしゃ)」です。上社の重要な神事には全て絡んでいるので、前宮成立以前の磐座信仰遺跡とされています。

磯並社

「磯並社」
磯並社(上に見えるのが小袋石)

 小袋石から一番離れた最下壇に坐す磯並社は、高さは目測で1.5mあるかなり大きな石祠です。
 かつてはこの前に、帝屋・五間廊・舞屋などがあったのでしょう。車道からも、今も平坦部が幾つかとその石垣が望まれます。
 先週「磯並社祭」が行われたので、草というか藪が刈り払われ見通しが利いています。これから今年の草が萌え小木が芽吹くので、写真のように祠が連なるシーンが見られるのは後わずかと思われます。

磯並社の小史料集

 『諏方大明神画詞』から磯並神事の段を転載しました。

 午(うま)の日、磯並幡さしの明神と号す神事、彼の社の拝殿にして饗膳常如(常のごとし)、歩射廿番、切的(※切った的)を用いる、帰路に草花を結びてかつら(鬘・かずら)として、人ごとに頸にかけて家にかえる、
諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書 第一巻』

 地元高部には、名主の記録『万年日記』が保存されており、その一部が高部歴史編纂委員会編『続・高部の文化財』に載っています。その中に「磯並之社及大破」がありました。

嘉永五年(1852)十一月四日磯並社大破し、高部は勿論御宮も本気になって修復しようとしたが、勧化無心が思うように行かず、隣村や村の人々に無心したが、結局だめであった

 この後に編集者の解説があります。

 もともと磯並社は北条高時の時から、磯並御宝殿・玉垣・前鳥居は中沢郷役 (中略) と定められていたのであるが、いつの頃からか、これは廃止になって、高部ですっかりやっていたのであろう。建物は難しいので石の祠にして小袋石の周囲に設置したものと思われるが、石祠は台風にもびくともしないので上社の天正の古図というものに描かれている磯並の神域は、この時に消滅したものと考えられる。

 中世までは、磯並社に限らず大宮(現諏訪大社上社)やその摂末社の社殿・鳥居・玉垣は、6年毎の「式年造営」で造り替えられました。それを担当する郷村も決められていましたが、諏方神社の衰退と共に次第に放置され、江戸時代では地元(高部区)が管理するしかなかったということです。