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磯並山社・磯並山神 18.11.5

磯並社 神長官守矢史料館蔵『模写版上社古図』の一部です。磯並四社の上方に、「山神」があります。


磯並山社へ

 今年の4月、「磯並山社」を自分の目で確認しようと小袋石の上部を探索したことがあります。探索とは大げさですが、本や資料には具体的な鎮座地が書かれていないので自分で見つけるしかありません。結局空振りに終わり、再び小袋石を見上げて帰りました。

 その後、図書館で『諏訪大社復興記』を見つけました。著作・発行が「諏訪大社社務所」ですから、言わば諏訪大社のお墨付きとも言えます。それには、磯並社の鎮座地が字「磯並」とあるのに対し、磯並山社は字「御手水」とあります。字(あざな)が異なるということは、両社はある程度離れているのではないかと推理しました。一方、以前より参考書代わりにしている宮坂光昭さんの『諏訪大社の御柱と年中行事』には、「磯並社前方の御手洗川」「磯並山社は(磯並社のある)扇状地を上りつめた位置に当たる」とあります。

再び磯並山社へ

 この上天気です。自宅への直行便では、染まり始めた秋に申し訳ないと山手へ車の向きを変えました。「紅葉見物兼磯並山社探し」です。
 前回は見落とした可能性があるので、ゆっくりと湿った枯葉を踏み、かつ滑りながら高みを目指しました。古絵図にもある、三つに割れた大石の脇を通り、さらにその上の高みへ登ります。磯並「山」社から、祠はピークの上に鎮座しているとの読みは外れたようで、今日も空振りか、と中部電力の送電線鉄塔から引き返しました。
 下りは右方向の適当な尾根を選びました。右に斎場の「靜香苑」が見え隠れしています。最近騒がれているクマに見間違えられるおそれがありますから左の尾根に移り、失意と空腹を抱えて再び小袋石の振り出しに戻りました。
 「朝食が食パン2枚だった」と言えば、撤退の言い訳としては十分です。しかし、それを聞いてくれる人はいませんから、半分破れかぶれで、御手洗川と思われる細い沢筋に沿って上流を目指しました。傾斜はそれほどでもなく、歩きやすい“道なき道”でした。

石垣 開けていた谷が狭まって、もはやこれまでという時に、沢の右側に石垣が連なっているのが見えました。この山深い地に「なぜ」と思いましたが、見回してもそれに関連する人工物はありません。あの時、と後悔することが間々あるので、取りあえず左斜面から写真を一枚撮りました。
 再びぶり返した腹の催促に、「さて」と近道となる明るい南側を見通すと祠らしきシルエットが見えます。先ほどは錆びた一斗缶を石祠と見間違えたので、さらに目を凝らすと、その脇に棒が立っています。それを御柱と確認した時点で磯並山社と確信しました。その背後は何と靜香苑の駐車場でした。

磯並山社 祠が二棟と御神灯が一基あります。注連縄が掛かっている左を磯並山社とし、ここに導いてくれたことへの感謝の拝礼をしました。
 右手前の神灯は、火袋だけ後世に補完されたようですが、竿には「天保十二年(1841)・講中十九人」と彫られています。19人が同じ思いを持った160年前は、この磯並山社周辺はどのような景観だったのでしょうか。
 左からはヒノキの大木が祠側に大きくせり出しています。地表に表れた太い根が、基壇に使われたと思われる石を抱えています。磯並「山の神」として神聖視し、幼木を刈らずにいたのでしょうか。または、祭りが衰退して見捨てられた結果、今見るような大木となってしまったのでしょうか。祠や神灯、周囲に残った5本の大木からイメージが膨らみます。大きな達成感に何度も頷いてしまいましたが、それが収まると寒さと空腹が…。

 現在は、祠の直ぐ上が靜香苑(火葬場)で左がその駐車場という環境です。何か場違いな設定ですが、これも時代が生んだ“遊び心”とでも言えそうです。
 一旦駐車場に這い上がると、折しも、黒服をまとった人々が窓越しに見えるバスが下って行きました。平成10年2月に、私も、天寿を全うした母に付き添ってここに来たことを思い起こしながら見送りました。
磯並山社 後はひたすら帰るのみです。ところが、駐車場が一段高いので、法面(のりめん)の下に、落ち葉と秋色のツルに被われた塁のような石組みがあるのに気が付きました。
 祠の向きは尾根筋と同方向ですが、右の沢に落ちる斜面の下程というのが磯並山社の鎮座位置です。その不安定な斜面対策として、沢沿いの石垣と今見ている塁状石組みが造られたのでしょうか。

(今となっては)謎の平地

磯並山社 このまま車道を下るつもりでした。しかし、磯並「山」社だからと、自分なりのこだわりが「藪の中」を選択させました。何かを期待したわけではありませんが、直ぐに現れた段差も降りて振り返れば石垣でした。
 (写真)手前が平地であることから、磯並山社の土止めではなく、かつてはここに何かの建造物があったと思われます。社殿でしょうか。磯並山社についてはどの本にも名前だけしか記載してありませんから、予想外の展開に困惑しました。しかし、すでに4時を回っています。イメージを膨らませるよりお腹を、と急ぎ下りました。

 『高部故事歴』に、磯並山社は「鎮座年代延暦ヨリ遥カニ前ニ磯並大神ノ神社造営之用材採取之時之ヲ祭ルト云」とあります。御柱用材を伐採する御小屋山の「御小屋明神」と同じ、と言えましょうか。さらに、「嘉暦の昔から式年造営(6年毎の建て替え)は行われなくなり、春秋に御手幣を捧げるだけになった」とありました。


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