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腰掛磐と祠 18.7.1

 富士見町図書館で、今井野菊著『信濃一之宮 諏訪大明神前宮遺蹟』とある小冊子を手にしました。その中にある〔御室明神変転〕の一部を、以下に転載しました。

 旧御室明神遺蹟は、現在の祠から御室の腰掛磐、更に中村氏屋敷地である。腰掛磐の上のは、甚右エ門氏が土蔵を作るにあたって、この腰掛磐を割り、ために病み、そのお詫びに祀った「地荒神」で、神原の神には関係を持たない。
(原文ママ)

 「祠・土蔵・割られた腰掛磐」に思い当たるものがあり、もしかしたら、と前宮へ行ってみました。

腰掛磐の祟り( 注現在、腰掛磐や土蔵・住宅は更地になっています)

腰掛磐と土蔵
土蔵と謎の祠

 前宮本殿へ続く坂道の途中に土蔵があります。その傍らに寄せ集めたような石があり、小さな祠がチョコンと乗っています。改めてその姿形を確認してから、蔵の右奥にある玄関前に立ちました。予想というか当然というか、表札は本に書かれた姓と同じでした。

 電池切れなのかチャイムは反応しません。何回か声を掛けると家人の代わりに犬の吠え声が…。「猛犬注意」の札にややビクビクしましたが、御犬様々で、後で分かったやや耳が遠いおばあさんが出てきました。不審者と思われないように、前もって用意したキーワード「腰掛石」をまず口にし、その所在を尋ねました。
 「私はここの在所ではない(嫁に来た)ので分からないが、新家(しんや)なら知っているかも知れない」と、道向かいの家に案内してくれました。この界隈は、自分を支配している時間とは別の流れなのでしょうか。かなり、と書けるほどの間の後、当主が現れました。

これが腰掛磐
内部の白っぽいのが腰掛磐(周囲は石質が違うので別物か)

 再び同じ内容を声にしますが、…ラチがあきません。三人連れ立って、石と祠の前でしっくりしない「腰掛磐談義」となりました。そこへ、たまたま「甚右エ門」の名を持ち出すと、新家が「それは曾(ひい)爺さんだ」と即答しました。ここで、新家はおばあさんの息子で、初めて甚右エ門本家と分家の関係が理解できました。
 それがきっかけで、一気に他人(私)と中村一族の距離が縮まったようでした。新家からは、(彼は)県会議員を務めたとか、子供の頃から(土地の有効利用という観点からは)邪魔となる石の存在を不思議に思っていた、と話が引き出せました。本家のおばあさんは、「そういえば、この石は石垣に使ってはいけないと聞いたことがある」と言い、(訳が分からないまま)正月や盆にはモチやオハギを供えている、とも付け加えました。

 前宮の“中枢部”に住む人から話が聞かれる滅多にないチャンス、とばかり「子供の頃はこの辺りはどんな景色でした」と新家に聞いてみました。「今と余り変わらない」と半ば予想した言葉が返ってきましたが、「現在前宮拝門石段前にある杉は、現在の本殿が造られたときに記念に植えたものだ。(自分が)親に抱かれた写真の中に添え木のあるその杉苗が写っている」「曾爺さん達の記念碑が上にある」などと興味のある話を聞くことができました。
 結局、本家分家ともこの祠の謂われを知らず、私が教えた恰好となりましたが、しばらくは、本家・分家・石・祠・曾爺さん入り乱れての話で一種異様な盛り上がりが続きました。

瑩石

 ところで、固有名詞となる「腰掛磐」とは一体どんな石だったのでしょうか。前述の冊子には「御室の腰掛磐」としか記述がありません。別ページには、「この一帯に露出している岩石はみんな神族を埋めたときに置いた墳墓の瑩石(たまいし)と見てよい」とあります。
 初めは螢(ほたる)と読んでいた「瑩」は初見の字です。今は存在しない旧字と思いましたが、「手書き文字入力」で確定した音読み「エイ」は、コードもあるれっきとした漢字でした。
 “字”が脱線してしまいましたが、瑩石とは石塔代わりの自然石と見て差し支えないでしょう。かつて累々と横たわり畑作の障害物で処分に困ったという瑩石も、「庭石ブームで、それ(墓石)と知られないまま一気に片付いた」と書いてあります。んー、そちらの方の祟りはどうだったのでしょうか。気になります。