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神長官 守矢家の家紋「丸に左十文字」 22.7.8(23.7.5改)

神長官邸鬼板 神長官守矢史料館を訪れた方なら、旧神長官邸の母屋の鬼板が「丸に十字(丸に左十文字)」の家紋であることに気がついたでしょう。その守矢家の家紋が(言い回しが古くなってしまいましたが)なぜ“篤姫の御守りに代表される”島津家の「家紋」にそっくりなのか不思議です。
 高部歴史編纂委員会『高部の文化財』に「守矢家の丸に十字の家紋」の項があります。

 勅使門の棟と勅使の間がある二階建ての屋根棟には、九州島津公と同じ丸の中に右から逆に書いた十字の紋が打ち出されている。守矢家の紋が諏訪大社社紋の梶の葉ならわかるが、この紋のいわれはどうした訳かと不思議に思う。聞くところによれば、島津公が関東管領の時、守矢の先代に功績があり、それで家紋を貰ったと言う。平忠度の子重実の使用した陣幕にあった紋という説もある。高遠の内藤家の紋も守矢家と同じものとのことで、何かその辺からも調べてみたい。
 (以降は『続・高部の文化財』) 平家が滅びた時、平忠度の子が、薩摩から逃れて神長の養子に入り、その時ついてきた立石隼人平忠康が高部に居つき、高部の立石の祖になったという記録が守矢文書にある。

島津家の家紋

 島津家と諏訪神社(現諏訪大社)の関係は、『伊藤富雄著作集 第1巻』から引用しました。

鎌倉時代の島津氏は、薩摩島津庄の地頭であると共に信濃水内郡太田庄の地頭で、島津氏の一族は諏訪神社の「御射山御頭」を勤仕していました。

 島津家の家紋については、当初は「十」で、江戸時代に「◯」で囲んで「家紋」にしたという変遷があります。江戸時代では“かなり疎遠”という関係ですから、これは無理でしょう。

内藤家の家紋

 高遠藩は高島(諏訪)藩の隣で、上社の御柱祭には騎馬行列を奉納するなど諏訪神社との結びつきは大きかったといいます。神長官邸の「裏山」が藩境の杖突峠ですから、祭礼を通して頻繁に交流があったのは間違いありません。

内藤氏の紋
 内藤家(本家)の家紋は「下がり藤」が定紋で、その他「丸に一」があったが、重頼のとき「丸十」に改めた。そのいわれは将軍綱吉が幼少のころ重頼に丸一を丸十に改める指示したという。また一説には内藤の「内」は、(後略)
高遠町誌編纂委員会『高遠町誌 上巻歴史一』

 ただし、内藤氏が高遠藩を治めたのは元禄以降なので、守矢家との結びつきは薄いと見ていいでしょう。

神長官邸 改めて、神長官邸の写真を左に載せました。冒頭の「赤い家紋」はこの母屋の鬼板ですが、下の勅使専用の玄関屋根にも同じ紋があります。瓦屋根の時代はどうだったのかと、今は引退した鬼瓦を確認すると、その部分には剥がれた「跡」しかありませんでした。
 それにしても、「守矢」だから「丸に違い矢」などの「矢」をモチーフにした家紋を採用したほうが自然と思われますが…。

『神長守矢氏系譜』にみる「丸に十文字」

 今井野菊著『洩矢氏族千鹿頭神』に「一子相伝の秘法」の章があります。ここに、「守矢系譜」についての一文があります。

 実久神長は神長家独特の伝統を持つ斎戒沐浴の日常の中に祖先伝来の文献の整理に尽粋され、一子相伝の系図の中に古伝の文献を時代順に記録し、相伝の口碑をはじめて文字とし「守矢系譜」を整理している。これが世に謂う「実久系譜」である。

 この『系譜』が『神長守矢氏系譜』として諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書』に収録してあり、「頼實(以下頼実)」の項に以下の文が挿入してありました。前出の『高部の文化財』にある「守矢家の丸に十字の家紋」の引用元でしょうか。

 『神長守矢氏系譜』は、明治初期に書かれた文献です。このことを頭に入れて、同書から転載したものを読んで下さい。

建久三年(中略)源頼朝伐平族之時薩摩守忠度季子匿于信濃洲羽蕨萱止云所爾結草庵居迎取養以爲子女以女故十文字下爾庵乎畫爲幕之紋、(中略)
・古記云守屋山蕨萱と云處に七年草庵を結び隱住、建久二年迎取為子

「以爲子女以女」が難解(読)ですが、ここまで来れば「略」でごまかすことはできません。私なりに“意味が通るように”読んでみました。

1192年、源頼朝平家を討つ、この時、薩摩守忠度(ただのり)の季子(きし※末子)信濃諏訪に隠れ蕨萱(わらびがや)と言う所に草庵を結(むすび)居る、迎え取り養い、女を以て子女を為す、故に十文字の下に庵を画き幕の紋と為す、

 「平忠度の末子を引き取って養育し、めあわせて子を為した」はそのままとしても、「十文字」が平家と結びつきません。平家の紋は「蝶」だからです。さらに、「薩摩守」はあくまで官位であって、平忠度が九州に赴任した史実はありません。そのことから、『系譜』の編者守矢実久が、「薩摩守」と「島津家の紋」を短絡させてしまったのがこの記述ということになります。
 同『神長守矢氏系譜』の系図では、神長頼実の後が「重実」です。

(仮)名 神平 後改政實 兼白川祝
任信濃守重實無子使頼實弟襲其職、(中略)
平氏畧系(略)

 「重実に跡継ぎがないので、頼実の弟が継いだ」と読めます。「平氏の血を入れた」ことを前提にすると、その次の「平氏の略系図」が俄然“輝いて”きます。ところが、「畧」なので、「重実が平忠度の孫・守矢頼実の子」であることを確認できません。目論見と違い平氏の血が重実一代で絶えてしまったので、「もはや平氏の系図は必要ない」と「略」にしたのでしょうか。

 繰り返しになりますが、『神長守矢氏系譜』の「解題」には、「大部分が守矢實久(実久)の筆になる」と書いてあります。信憑性云々はともかく、「守矢家の家紋が、なぜ◯に逆(左)十字なのか」の一つの話として紹介してみました。

神宮寺区の家紋調査

 本宮南参道「若宮社」上の「守矢さん」が、神長官家との関係は不明ですが同じ家紋でした。ここは諏訪市中洲神宮寺になりますが、神長官家がある高部の隣です。中洲公民館編『中洲村史』に「神宮寺区に分布する家紋調査」があったのを思い出したので、その足で図書館へ向かいました。
 調査の趣旨や考察がありますが、調査時期・範囲・回答数を「昭和63年・区内5町内(長沢・南町・仲町・宮ノ脇・今橋)・申告361/383軒」とだけ記します。神宮寺区は上社本宮の周辺にある町です。

長沢町(5戸) 島津・守矢(4戸)
南町(2戸) 守矢・守屋
仲町(1戸) 守矢

 結果は、家紋が8戸でした。「神宮寺には島津さんがいた!」は別にして、いずれも守矢と守屋さんでした。本家筋のみが「守矢」を名乗ったと言いますが、明治からはそれが崩れたそうですから参考程度としてください。いずれにしても、「守矢」と、それをルーツとする守屋・守谷さんは、他県では圧倒的に少ないのは間違いありません。