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亀石(諏訪七石)

 「諏訪七石」の一つ「亀石」は、江戸時代以前の文献には「千野川に在り浮石・茅野・茅野村亀石に在・宮川内・茅野村内・ちの」と書かれ、昭和以降では「安国寺・宮川が西茅野を流れ通り安国寺と中河原との境に来る辺りにあり」という記述になっています。いずれの地も、“現物”が存在していないので、推定地ということになります。

千野川社・亀石
千野川神社から宮川を臨む

 西茅野と安国寺の間に、現在も亀石明神を祀る「千野川社」があります。しかし、前記の通り、御神体とも言うべき亀石は洪水で流されて行方不明になっています。
 千野廣著『千野(茅野)氏概説』に「亀石」に関連する文があります。長文ですが、引用してみました。廣氏は、亀石を祀った千野氏の末裔です。

 千野氏は、この古屋敷に住むようになってから邸内に亀石大明神を祀り、千野氏の御社宮神、すなわち潔斎屋となした。
 亀石というのは、諏訪七石の一つで、古代における奇石信仰の一神体である。亀石がそこに運ばれる前にはどこにあったか、また、古屋敷のどの辺に祀られていたかは確かでないが、多分宮川河畔に近いところであったらしい。
 しかるに、文明14年(1482)のたびたびの宮川の洪水、堤防の決壊などのため、その亀石は押し流されて行方不明になってしまった。貴重な亀石がなくなってしまったことは、千野氏の驚きはいうに及ばず、地方民もこれを惜しむこと一通りではなく、百方手を尽くして河中を探したが、遂にそれを発見することができなかった。
 そこで止むなく、亀甲形の亀裂がある石をどこからか探してきて、今度は絶対に洪水のために流される心配のない高いところに据えてこれを祀った。
 天正18年(1590)、秀吉が家康に関八州の地を与え、家康が江戸城に入るに及び、家康に属していた諏訪氏は武州奈良梨の地に移封され、千野氏は諏訪氏と共にその地に移るようになったので、亀石大明神の御神体を、そのまま古屋敷の地に残して行くのも止むと得ないことであった。
 かくて、亀石大明神のその後の保守も十分でなかったので、地方人もその失われることを惜しみ、近年に至ってその近くに石造りの小祠と共にそれを祀ったのが、現在の亀石大明神である。そこにある石碑に刻まれている文字を読んでみると、万延辛酉(1861)12月とあるから、それは、諏訪氏が武州奈良梨の地から、文禄元年(1590)上州総社の地に転封を命じられ、さらに慶長6年(1601)旧諏訪の地に復封を許されてより、260年も後のことである。
 文明14年(1482)に行方不明となった亀石は、新井(小町屋の北方、宮川と上川との間)の取りこわし(治水関係の工事)の際、宮川の河床中に埋まっていることが発見され、それを掘り出すことができた。それは源地亀石の地に復帰せしむべきであると主張するものもあったが、川堀の役人の指図により、高島藩主のもとに提出することに決し、高島城内に搬入された。
 そしてその後、明治7年(1874)高島城取りこわしの際、亀石は売り払われてしまい、現在は諏訪市清水町、河西義雄氏の庭に保存されている。
 この亀石は、現在亀石大明神として祀られている亀石に比して、だいぶん大きく、かつ、その全体があたかも大亀がはっているような形をしている。この亀石が、果たして千野氏が、その古屋敷の邸内に亀石大明神として祀っていた亀石そのものであるかどうかはわからないが、もしそうだとすれば、この大きな石が、古屋敷から宮川の下流1500米もの川下、小町屋付近まで押し流されたものとすれば、宮川の大洪水もさぞかし驚くべきものであったろうと思われ、さらに、延長年間に地護宮を襲った大洪水も、これに劣らないほどの、激甚なものであったろうと推察される。

千野氏発祥の地たる茅野郷の口碑に残る一番古いその居館は、延長年間(923-930)に宮川の大氾濫にあって押し流された。

 『千野(茅野)氏概説』が、「亀石」を解説したものの中では一番情報量が多いと思われます。「鶴は千年・亀は万年」と言いますから、河床中に眠りこけて(人類の歴史の中では)目覚めることはないかもしれません。


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