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上金子御頭御社宮司社 諏訪市中洲 21.3.28

 諏訪には幾つかの御頭御社宮司社があります。今回は、諏訪大社にも近い旧上金子村にある御社宮司社を訪ねてみました。かつては、南方・北方と二社あった御頭御社宮司社です。

上金子御頭御社宮司社 境内入口に、諏訪では珍しいといえる「詳しい由緒書」が設置してありました。重複した記述が気になりますが、御社宮司神や御頭郷の解説がわかりやすいので、抜粋して以下に紹介しました。なお、読みやすいように一部“改ざん”してあります。

御頭御社宮司社(南方北方合祀)
社格 村社で諏訪大社の摂社(明治11年10月内務省指定)。
祭神 御社宮司神・諏訪大社建御名方富命御子神合祀。

鎮座年月 室町時代より遠く上代で、諏訪神社御頭郷役を勤める。

社殿 上代よりの慣例により御頭番の節目である八年毎に改築し、古来より境外所有地二反四畝余の作得収入を祭典・営繕費に充てた。

 御社宮司神は御左口ノ神・御作事ノ神とも云い、自然信仰に基づく稲・土地の神として崇められてきた。この神を祀るのは大変古くから拓かれた村であることを物語っている。
 室町時代以降、戦乱が続き、諏訪神社への御頭奉仕が乱れており、慶長十九年(1614)、高島藩初代藩主諏訪頼水は、神使御頭役を新たに諏訪郡を十五郷に分けて親郷とし、他の村々を枝郷として配属し御頭役を勤めるように定めた。
 上金子郷は十五郷一巡のうち二回親郷として御頭役を勤め、南方・北方両御社宮司社が交互に奉仕した。故に当村には南方、北方の御頭御社宮司社が存在していた訳である。これは広大な耕地と大きな財力があった証である。
 北方御社宮司社は明治維新後に南方に統合されたが、現在も残されていて、例祭には玉串が神官・役員により奉ぜられている。

御頭御社宮司社の御柱

上金子南方御社宮司社 この写真を見て「おやっ…」と思われた方はいるでしょうか。左の高架を「中央自動車道」と指摘した人は、正解ですが“外れ”です。これから私が話題にしようとしているのは「御柱」です。
 手前の木が「黒木の御柱」と気が付いた方は、かなりの御柱通と言えます。最上部の写真で、画像が小さくてわかりにくいと思いますが「先端が角錐状(冠落し)・御幣の軸が残っている」と補足すれば納得してもらえるかもしれません。諏訪大社の御柱も「湖南・中洲地区が担当する年は黒木」ですから、中洲に属する旧金子村も旧例に従った、のかはまだ確認していません。

 御頭御社宮司社の社地は狭く、鳥居の前は民家です。そのため、神様は「それでいいのだ」と言うかもしれませんが、正面から鳥居を入れた社殿を撮ることはできません。中洲公民館刊『中洲村史』には、「拝殿は二間半に二間、本殿は三・三尺に四・五尺で高い石段の上に祀られ…」とありました。

(旧)北方御頭御社宮司社

上金子・北方御頭御社宮司社 適当に歩いたので、もう一度行けと言われてもその前に立つのは不可能です。小川沿いの、丸太を杭で土止めした小道から入ったのだけは覚えていますが…。
 一枚だけ撮っておいた小さな社が「北方御頭御社宮司社」でした。これは、『中洲村史』に載る写真を見て気が付きました。3年前のことですから、今は御柱を建てていないかもしれません。取りあえず、両御頭御社宮司社を紹介できてよかった、ということになりました。

北方御頭御社宮司社
 上金子村には南方、北方二社の御頭御社宮司社があり、近年それは南方に統合して祀られている。ところが、空社になった筈の北方社もはっきりしているので、祠を修理したり御柱を建てたり椹の森を伐らずに残したり、六〇坪程の芝地を守り続けている。永い信仰は一朝一夕には消しがたいものの感を深くする。
細野正夫・今井広亀著『中洲村史』〔上金子村を行く〕