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「風無神袋風祝塚」 茅野市高部 20.6.17/25.9.23 改

【 風祝・風の祝 】 どちらが正しい表記なのかわかりません。書くときは「風祝」で、読む(話す)ときに「の」を加えるのでしょうか。諏訪では私的な古文書に「風祝」が見られるものの、一般的(公)な古文献にはその文字は書かれていません。地元の研究者は「権祝・副祝・擬祝」に「の」とふりがなを付けていますが、「風祝」は「風の祝」と表記しています。

【 ほうり・はふり 】 「祝」の読みも、辞書は「はふり」の一点張りですが、『一太郎(ATOK)』は「ほうり」を「祝子」と変換してくれました。『諏方大明神画詞』では、大祝を「オオノト※大祝詞」・祝は「ハウリ」とフリガナがついています。新しいところでは、三輪磐根著『諏訪大社』は「ほうり」です。諏訪では、公私を含めた本はすべて「ほうり」なので、私もその度に「子」を消すのが面倒なので「ほうり→祝」で辞書登録をしました。

 江戸時代初期とされる、神宮寺区蔵『上社古図』があります。この絵図に標題の「風無神袋風祝塚」と書いてあるので、どう読むかはその人に任せるとして、ここでは「風祝」で表記することにしました。

「…風の祝にすきまあらすな」

 「風祝」というと、“必ず出てくる”のが『清輔袋草紙』に収められた源俊頼の歌です。地元の諏訪ではなく、「遥か彼方の都人が注目したところに風祝の位置付けがわかる」といったところでしょうか。

しなの(信濃)なるきそ地(木曽路)のさくら(桜)さきにけり 風のはふり(祝)にすきま(隙間)あらすな

さらに、選者の藤原清輔の解説が並記されます。

 信濃國は極(めて)風早き所也、仍(よっ)てスハ(諏方)の明神の社に、風祝と云物を置て、是を春の始に、深物に籠(こもり)居て、祝して百日之間尊重するなり、然者(しかれば)其年凡(およそ)風閑(静か)にて、農業(の)(ために)(きち)也、自(おのずか)らすきま(隙間)もあり、日光も令(漏れ)見つれば、風不納(おさまらず)云々(うんぬん)
歌の訳のみを抜粋 

 この内容から、前宮の「御室神事」が「風鎮神事」として都へ伝わったことが想像されます。『諏方大明神画詞』に「その儀式おそれあるにより詳細に延べがたし」とあるので、誤って風聞された可能性は充分あります。
 ここに来て「源俊頼の歌」ですが、「木曽(東山道)では桜が咲いたそうだ。(強風で散らないように)風祝はしっかり祈ってくれたのだろうか」としました。
 鎌倉後期の私撰和歌集『夫木集』です。

信濃路や風の祝子心せよ しらゆふ花のにほふ神垣

 時代は下った江戸中期ですが、菅江真澄『来目路(くめじ)の橋』に、諏訪神社(現諏訪大社)の「大祓」を詠んだ歌が載っています。

けふといへばみそぎを須羽の海つらに 祓やすらん風の祝子

 この二首は「祝子」を使っています。「ほうり」では字余りになりますから、「ほうりこ」と読むべきでしょう。この例では、巫女をイメージして詠んだのかもしれません。

「風無神袋風祝塚」

風祝塚 神宮寺区蔵『上社古図』に、「加佐無明神」の祠が「今ナシ」として描いてあり、その下に「風無神袋・風祝塚」と書かれた塚(古墳)のようなものが三基あります。宮地直一著『諏訪史 第二巻後編』から、その一部を転載しました。
 場所は「小袋石」がある磯並社の川向かいですが、絵地図なので方角と場所は正確ではありません。諏訪史談会編『復刻諏訪史蹟要項』では、「風無神袋(こうたい・こうてい)古墳」として載っています。
 諏訪では、この祠と塚が風鎮(風祝)に関係あるとする話があります。伊藤麟太朗著『新年内神事次第旧記釈義』の〔諏訪神社新論(一)〕では、持統天皇の勅使派遣について以下のように述べています。

須波神については、持統紀の奉幣の目的(須波神おろし・須波神潰し)は明らかであるが、諏訪では交渉の結果本殿では奉幣させず、特設の野外斎場、神長邸の上部、風無かんぶくろで奉幣せしめたのであった。
〔須波神おろし〕から

 その頃は「まだ前宮のみ」の時代と思われますから、「持統天皇(勅使)が押しつけた“風神”を受け入れるために、祭場と“風祝職”を急きょ作った」というのが地元諏訪の見方でしょう。我流の言い方なら「ウチは(ミシャグジで)風とは関係ないけど、せっかく都から来てくれたから、風の神として祀ってもいいよ」となります。

 宮地直一著『諏訪史第二巻後編』〔大宮御祭(御祭・大宮神司)〕から、参考になる部分を転載しました。

…笠無の由来や所在は明らかでないが、伊藤(富雄)氏の説に風無の転で風を祈るの謂、即ち之がために上下社何れにも特定の祭場を置き、その名称をも笠無といったのであろうという。…
 今意を以て解する時は、風祝以来の古い歴史に飾らるゝ風祭が、中世以降笠無神事として国司祭の一部に入り、その際行烈師を迎えたが、…

 これは三月寅日の神事の解説ですが、長文の中から極一部を抜粋したので本意と異なるかもしれません。

「風無神袋古墳」

「風祝」塚がある高部扇状地

 その名前に惹かれて現地へ行ってみましたが、すでに消滅したのか、案内板もないので特定できませんでした。その代わり、「風無・かさなし」から転化したと言われる字(あざな)から名付けた「頭無(かしらなし)1号・2号古墳」がありました。こちらは平成の発掘ですから案内板があります。しかし、欲しい情報は「古墳の名は古い地名から採った」だけでした。
 この高部の扇状地のどこかに、「風なし」に関連する祠と塚があったのでしょうか。高部歴史編纂委員会『高部の文化財』から引用します。

(前略) 付近に邸跡がある。中間に風祝塚があったと思われる。これは古墳ではなく、風の神を封じ込めた風袋を百日間封じ込めた塚であろう。松本から国司がやってきて、最初に野天で国祭を行ったというのがここであったと思われる。野天ではあんまりだというので、本宮を造ったという曰くつきの場所である。

 これが、諏訪大社関連の本には必ず登場する「持統天皇が、水内の神と須波の神に勅使を出して天候の回復を願った」とある「風祭り」(の始まり)で、さらに「本宮の成立」理由までも“サラッ”と述べています。風祭りの場所は特定できませんでしたが、「風祝についてはこれ以上簡潔な文はない」としたので、これにてまとめとすることにしました。
 そうは言っても、書きためた短文やメモなどがあります。せっかくですから、以下に紹介します。

『高部故事歴』

 『続 高部の文化財』に、大正9年に権祝の末裔矢島氏が著した『高部故事歴』が収録してあります。参考として、私の基準で「風祝」に関連したものを拾ってみました。「…」は、長文なので省略した部分です。

… 風祝の風無神袋殿の蹟、建御名方富神の御子に池生(いけのうの)(其?)御子池若御子神にして其御子に矢島根神あり、皆国を造り御佐久知(※みしゃぐじ)の神なり、其神裔は世々土侯にして威勢ありて風の祝と称す、…其後風祝・神英多丸(かんのあがたまる)は…、後に名を清員(きよかず)と改む、上宮仏法開起の時空海和尚より礼鏡を贈られ今上社にあり、…
 元来諏方明神の霊威は雲霧を払う風を掌(つかさど)り玉うと伝え其神裔の風の祝は其霊威を伝え受けて祭政を…
(ここに、源俊頼の歌と家長朝臣の解釈を載せている)
 風の祝後には権大祝、鎌倉時代より権祝・諏方祝と称す、…
講和の為めに遂に武居城を開城し神袋殿を引き払い長沢の別邸(※現在の旧権祝邸)に移転せり、自後は風無神袋殿の跡田園に開墾、現時は風祝家と御佐久知神袋神祠を存す、…

 『高部の文化財』では「権祝系図」の一部が載っています。この系図では、6代目の「神氏」が初めて「風祝」を名乗ったことになります。

 引用した『高部故事歴』(部分)では省略した「風祝」関連の文を、諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書』収録の『矢島正宣書留』から書き写しました。

 寛和二年、花山院法皇紀伊国熊野よりはるばると吾諏方へ御しのびにて大宮前宮へ御参宮させ給、かねて供僧の内證(ないしょう)ありしにより風祝の風無神袋殿(※屋敷)に迎奉(むかえたてまつり)、その神賀殿・寝殿・池殿の三所に御坐所を設(もうけ)おわしめせ、奉供御一切御事は供奉(ぐぶ※お共)の僧共仕(つかまつり)奉れり、(中略) 此御事はすべて末代までも他言すべからず秘すべし、
此時、正宣の風祝へ賜物は、御宸翰(ごしんかん)の和歌・熊野御宝等也、…

 「寛和」は見たことも聞いたこともありません。年代表で確認すると、ズズーっとさかのぼって西暦1000年代を越えて、何と986年でした。大正になって書き留めた「寛和の書留」をどう評価(信用)していいのかわかりませんが、参考として載せました。

風祝と御佐久知神袋神祠

風祝・権祝旧屋敷跡 権祝の旧屋敷「風無神袋殿」跡と伝わる場所に、矢島氏が先祖の威光を讃えるために建てた石祠「御佐久知神袋神祠」があります。「奉造営・明治十七年十月・後裔矢島神臣正守」と彫られていました。この前に立ち、(否定する材料もないので)半径100m以内に「風鎮め神事発祥の地(風無神袋・風祝塚)」があった、と見回しました。

風無・カサナシ・笠なし・加佐無明神

 茅野家文書に、嘉禎3年に書かれたとされる『祝詞段』と『根元記』があります。諸神勧請とあって神々の名前が列挙してある書ですが、前宮周辺の神々の中に「カサナシ」が見られます。

 武井正弘著『年内神事次第旧記』を読むと、「春秋之祭に笠なしにて行烈し(行烈師・舞師)の御神事次第」とあります。
 注釈では、「ここでは風無しではなく、文字通りの笠を被らない」としています。しかし、「秋の祭」は「荒玉・前宮・笠無、御手幣一束つゝ参」で、具体的な社名に続いての「笠無」ですから、本祭の後「笠無(加佐無明神)」へ参拝したのは確実でしょう。

 「笠無神事」は、『造営帳』などからも上社と下社で行われたのはわかっていますが、具体的な神事の内容は明らかではありません。神事は国司の奉幣と行烈師の舞がメインで、諏訪神社では傍観する立場を貫き通したように思えます。最後になってズルイと言われそうですが、「笠なし・笠無を、『風無』とするのは無理ではないか」という話もあります。

御射山の「昔風祝御庵」

昔風祝御庵 神宮寺区蔵『上社古図』に、「大四御庵の下に“昔風祝御庵”と書かれている」ことが指摘されています。参考として、宮地直一著『諏訪史第二巻後編』所載の図版から「上社古絵図」の一部を転載しました。
 諏訪の古文献には「風祝」の文字がまったく見られないので、この絵図が唯一の「風祝」ということになります。しかし、文字が小さく字体も異なるので、後世の書き込みと思われます。さらに「大祝庵がないので…大祝は風祝ではないか」ということですが、右下の折り目の部分に、不鮮明ですが「大祝庵」が二棟描かれています。