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河原休戸千鹿頭神社(旧跡地) 富士見町 22.4.12

 メニュー「上社散歩道」にある[横吹千鹿頭神社]と[原休戸千鹿頭神社]を読んでいただくと、より理解できます。

休戸(やすみど)

 原休戸千鹿頭神社境内に、「川原休戸千鹿頭神社を、原休戸千鹿頭神社境内に移転合祠した」とある碑があります。移転の原因は「南諏衛生センター最終処分場」の建設でした。ところが、長野県神社庁諏訪支部のリストでは、現在も河原千鹿頭神社があった「富士見字河原休戸5185」になっています。まだ未登録なのか修正漏れなのか、休戸集落内での「内輪の合祀」なのか、その原因はわかりません。

 千鹿頭神社は、遙か昔に、何らかの事情で激減したと伝えられています。諏訪に「残る」5社をすべて参拝できた時点で、その謎めいた「成立と流転」もあって、富士見町の河原休戸には現在でも「その跡」が残っているのだろうかと気になっていました。これは「私自身のこだわり」なので、他人には理解してもらえないし興味もないことと思いますが…。

休戸の地図
千鹿頭社は、横吹の千鹿頭神社

 細川隼人編『富士見村誌』の折り込みに「富士見村圖(図)」がありました。昭和36年発行なので、「処分場」ができる前です。さっそくに眺めると、「休戸」の左横に千鹿頭社がありました。一方、平成の地図を、詳細表示の「富士見町遺跡地図」で代用すると、の位置に「千鹿頭社」があります。現在の「危険物持ち込みセンター」の前です。どちらかの誤記か、原休戸を除いても千鹿頭神社が近接して二社あった可能性を考えました。

 この千鹿頭社の辺りに、現在は車道になっていますが、路側帯の横にチェーンで囲われた磐座のような大石が二つあるのを思い出しました。

謎の大石
左の石は目測で60cm弱

 初めて目にしたときは「衝突防止の囲い」と思いました。しかし、完全に路肩から離れているので、敢えて注意を喚起する必要性はありません。また、重機ならたやすく移動できます。そうなると、「これは《特別な石》だから庭石用に持ち去ってはいけない」から「祟り石だから触ってはいけない」と連想が進み、何も起こらないうちにと「二礼二拍手一礼」を深々としてしまいました。
 今、改めてこの写真を見ると、ここに置かれているのは明らかに不自然です。千鹿頭神社旧跡に残された「何か」である可能性がありますが、それ以上のことはわかりません。

 『富士見村誌』の「神社・仏閣」に、休戸区の千鹿頭神社が載っています。

 原千鹿頭社と河原千鹿頭社の二社があって、例祭は何れも三月十五日である。祭神は内県の神で勧請の年代は不詳である。
 右の他に、山の神(例祭一月十七日)天狗社(仝十月十日)稲荷社・三峯社・大山祇社・富蔵山・道祖神(原休戸のアララ木の下にある)等がある。なお、休戸の氏神は現在、石灰屋道上の林の中にあって、そこには寛永十四年と銘のある籃塔がある。

 碑では「平成4年に、河原休戸千鹿頭神社を原休戸千鹿頭社に移転合祀」でしたが、富士見町がまだ富士見村であった昭和36年でも、すでに河原・水掛・原の「氏神」は「原の千鹿頭神社」に移っていたことがわかります。その原休戸の集落も、「富士見村図」では「∴」の「原休戸址」となっており、現在の休戸は(別荘は除いて)「水カケ」に4軒残るのみだそうです。

河原休戸千鹿頭神社

休戸地蔵権現 諏訪史談会『復刻諏訪藩主手元絵図』の〔休戸村 花場新田〕に、「あたこ(愛宕)山地蔵権現」がありました。江戸時代の絵図なので、かなり“デフォルメ”されています。
 近辺に「千鹿頭」の文字はありませんが、隣に「宝篋塔」が書かれているので、後述となる「御堂と宝篋印塔」であることは間違いありません。なお、釜無川と程久保川が現代の地図と同じになるように絵図を回転させましたが、今度は道があらぬ方向に…。

 「何か」とした石の周辺に河原千鹿頭神社があったのか、「遺跡地図にある神社」が河原千鹿頭神社なのかを確認するために、二年ぶりに休戸へ出掛けました。
 今日は処理場が休みなので駐車場を借りました。トコトコ下っていくと、左方の高みに向かう石段があります。上に小堂が見えますが、石塔から墓地とわかりました。ところが、通り過ぎてからすぐに上に続く小道があり、神号碑・石祠が幾つか望めます。試しに上ってそれを目の前にすると道祖神でした。

休戸 千鹿頭神社

 さらにその上のチョッとした平地に立つと、先ほどの御堂と同じ敷地内で、ブログ『じいばあカフェ』の「河原休戸」にあった写真が現れました。ここが旧河原休戸千鹿頭神社に間違いありません。

 御堂の屋根には、“まだ”金色が輝く「休戸」の文字が入った鬼板が見えます。その脇まで、石塔や宝篋印塔が迫っていますが、三方をトタンで囲い正面はシャッターという構造は、とても寺堂とは思えません。旧千鹿頭神社の拝殿兼覆屋で、中に“無住”の本殿があるのでしょうか。

 さらに上ると「完全な平地」が幾つかあります。その山際は石垣ですから、畑ではなく棚田でしょう。ここから眺めるだけにしましたが、奥には無住の家が一軒見えました。『じいばあカフェ』に、「休戸は昔は10軒から先はあったぞ。お堂の上に3軒、あれは昔っからあっただ。よっく大昔か知らねぇけんど。ほら、町の粗大ゴミのところの下のところ」とある光景でした。
 かつては10軒ほどの家々があり、農地や神社・お寺・墓地があり、三月のお祭りにはこの千鹿頭神社に全戸が集まって豊作を願ったと想像してみました。

謎の大石 上写真中央の祠に「天明五年」と彫られているので、何か手掛かりがと左側面を覗きました。初めは手抜きの削り残しと思いましたが、よく見ると「シカ」のレリーフです。キツネにも見えますが、ここは千鹿頭神社だから鹿と断定し、この石祠が今は祭神が去った千鹿頭神社の旧本殿と確信しました。
 ところが、自宅で改めて写真を見ると「座り方がイヌやネコと同じ(シカは横座り)」ということで、稲荷社の眷属「キツネ」のようです。三峯社の「オオカミ・ヤマイヌ」の可能性も考えましたが、(レベル補正で鮮やかになったので気が付いた)尾の先が赤く塗られていることから、赤鳥居の連想もあり稲荷社としました。一時は「これが千鹿頭社の本殿だ」と小躍りしましたから、何か化かされたような気分でした。

再び“謎の大石”

 道脇にある「磐座のような石二つ」の直ぐ下には、(地図では)「花場」へ続く旧道の分岐があります。もちろん枯れ葉に覆われ人馬しか通れない廃道です。しかし、その周囲を歩き回っても、神社跡を思わせるような物は見つかりませんでした。結局、「謎の石」として終わりました。

日本武尊の東征

 前出の『富士見村誌』では、〔交通〕〈上代の交通〉に

 日本武尊が御東征の帰途、諏訪をお通りになったことが伝えられている。しかしこの御通路についてもいろいろの説(古事記・日本書紀)があって一定しないが、尊の御通路伝説を調べてみると、甲斐の終点地大武川(地図の右下)から甲信国境の釜無川を渡り旧落合村に入り、古宿を通り、休戸に達し、お休みになり、これから釜無川に沿って長者・八瀬・旧片瀬を経て横岳峠を越え、上伊那郡美和村戸台に出て、…

とあります。「休戸」が登場したので、紹介してみました。