児玉石神社の小さな標識の先は、旧甲州街道に沿って続く民家の間でした。ある意思を持ってその小路を正面にすると、何か別世界の入口のように見えました。
「どんな神社だろう」と思う間もなく現れたのが、大石がゴロゴロという児玉石神社でした。やはり気になります。誰もがするように神社の周囲を見渡しましたが、類似の石を見つけることはできませんでした。この場所だけの特異地形なのか、または人為で集めたのか、不思議と言うしかありません。この奇怪な景観となった石の組み合わせが、「諏訪七石」の一つ「児玉石」と言われる所以(ゆえん)でしょう。
今日は児玉石神社(の参拝)に来たのですが、「児玉石を見に来た」と言い替えた方がよさそうな状況となってしまいました。それほどの存在感がありますから、児玉石神社への拝礼は、それぞれの石を順に巡った後の「さー、帰るか」の次の行為になってしまいました。
長野県文化財保護協会『復刻版長野県史跡文化財天然記念物調査報告書』には、「児玉石は、上部の崖にあった石が長年の雨水によって崩れこの場所に止まった」とありました。
上写真は、児玉石神社で最大の石です。注連縄が掛けられていますから「神石」という位置付けですが、名前は「疣石(イボ石)」です。再び同書から引用しました。
疣石 北面中央に口径四寸深さ一尺程の穴あり。中に水を湛え古来疣水と称する。寒暑の侯絶ゆることなく諸人疣の生ずる時其の水を拝裁しこれを付すれば能く治すといえり。
【児玉】 児玉石は「諏訪七石」の一つとして知られていますが、そもそも「児玉石」とは何でしょう。手元の辞書で確認すると、“児玉さん”はありますが「児玉石」は載っていません。ネットで検索しても児玉石の用例はほとんどありません。その中で、「玉改め」で知られる長野市松代町「玉依比売命神社」の「児玉石神事」に注目しました。
この神社では勾玉・管玉・切子玉・大珠などを「児玉石」と総称しています。しかし、私がイメージするのは、あくまで胎児の形に似ているといわれる勾玉です。
【勾玉】 児玉石神社を紹介する際に、よく“引き合い”に出されるのが、古歌の「水底照らす児玉石」です。
しかし、ここで歌われる児玉石のイメージは、手のひらに乗る翡翠の勾玉です。そのため、境内に“珍座”する児玉石は「大石」ですから、これを挙げること自体に違和感があります。各書とも両石の関連性を書いてないので、単に「名前が同じだから」という発想でしょう。
境内に案内板があります。「神が袖を濡らさずに大石を取り上げた」という表現で、古歌は並記していません。私と同様に「水底照らす」はイメージに合わないと判断したのでしょう。
勝手ながら「新・児玉石神社縁起」として書き下ろしてみました。
諏訪には、神々の名前と鎮座地を列記した書物が残っています。『祝詞段』には嘉禎三年(1237)の奥書があり、『根元記(下)』は「嘉禎年中」とされています。この両書に「小玉石・子玉石」が書かれています。何れも、諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書』から転載しました。
「下桑原鎮守」は手長神社のことです。句読点[・]は私が勝手に加えたので「大矢(に)小玉石」かもしれませんが、「小玉石・子玉石」が「児玉石神社」に当たるのは間違いありません。この両書を“基準”にすると、神社の創立は「嘉禎年中(1235−1238)」以前となります。
代わって、境内にある『兒玉石神社由緒記』からの抜粋です。
私は『根元記抄』なる本の存在を知りませんが、「 」が『祝詞段』『根元記(下)』とまったく同じです。そのため、この説明には何か胡散臭(うさんくさ)いものを感じてしまいます。
本殿にある御神体を拝観することはできませんが、巷では“石棒”であることが知られています。昭和32年発行の今井邦治著『神座社壇を主題とする諏訪大社成因の考察』〔自然神信仰時代の残痕〕から、関係する部分を抜粋しました。
「あばいた」という表現が露骨ですが、これで「御神体が石棒」であることがわかります。ただし、原初からのものなのか後世の奉納品なのかはわかりません。
石棒を神体とすれば、境内にある大石は「諏訪七石の児玉石」ということになり、よくある「神木」の類と同じものとなります。ただし、この世界では、そう単純に割り切ることはできません。