諏訪大社と諏訪神社トップ / 上社散歩道メニュー /

下浜御社宮司神社 岡谷市湖畔 21.6.26

 「諏訪にある神社は、全てミシャグジがルーツである」といっても過言ではありません。その中で、長野県神社庁が包括する「御社宮司」と名が付いた神社の一つである岡谷市の「御社宮司神社」を参拝しました。

下浜御社宮司社

 車ではこの前を数え切れないくらい通っていますが、ここが御社宮司社とは知りませんでした。鳥居額にハッキリ「御社宮司神社」とありますが、道幅が狭い上に見通しが悪いので、チラッと見ることさえできなかったのが原因でした。
 現在の住所表示は「岡谷市湖畔」で、神社前の公園も「湖畔公園」です。しかし、岡谷市民ではない私でも、旧村名が旧字(あざな)に替わった「下浜」の方がしっくりします。その前を通ってきた公民館も「下浜区民センター」なので、「下浜御社宮司神社」としました。

下浜御社宮司社「本殿」 屋根のみという覆屋ですが、上部三方を板で囲ってあるので本殿の全容を拝観することはできません。彫刻は随所に見えますが、横からは下部のみ・正面は斜めから“チョッとだけ”という状態でした。自宅で写真を拡大して、初めて御扉に「諏訪梶」の彫刻があるのが確認できました。
 本殿の瑞垣内にも灯籠がありますが、拝殿前にある灯籠が一番古いもので、延享五年(1748)でした。

下浜御社宮司神社由緒

 境内に「由緒書」がなかったので、諏訪史談会『復刻諏訪史蹟要項』から「御社宮司神社」を紹介します。「読めないので、一字づつ変換した」という“曰く付きの”文なので、その苦労を買って一回は目を通してください。「( )」は、後から調べて加えた読み仮名です。

御社宮司神社(下浜字(あざ)浜浦)

社名変遷 元は御社宮司社、また南宮・海(はま・浜)南宮と称し神社と唱えることは許されなかった。大正九年御社宮司神社と改称する。

祭神 建御名方命他十四神(十五社)

由緒 小社神号記(武居光年蔵)に
「往古御三孤神(※三狐神)とも書り。然れば爰(ここ)に記すことあり。専女(とうめ)神は保食(うけもち)神御同体なり云々。御鎮座伝記に云う。調御倉(つきのみくら)神宇能美多麻(うのみたま)神に座(います)なり。是装(則ち?)伊諾装冊(いざなみ)に柱の尊所生神なり。亦(また)は大宣都比売(おおげつのひめ)神亦保食神と名つけまうす。神祇菅(官?)の社内に座(います)御膳(みけつ)神是なり。亦神服機殿(かんはとりどの)に祝祭三狐神同座神なり。故に亦専女神と名つけまつる云々」
 また明治二十年頃の御書上には祭神猿田彦命と記せりという。(小口啓次郎氏談)

祭式・古例 湯立て神事 (以下略)

 「由緒」の中に「かなり古い言葉」が混ざっています。『小社神号記』を引用した文と思われるので、改行し「(引用文)」で括(くく)ってみました。
 折り込みの『諏訪藩主手元絵図』には「三狐神」と書いてあります。三狐神(みけつかみ)→専女→保食→稲荷から、「御社宮司神社」の祭神は「稲荷神」しか考えられません。しかし、三狐神(さごじ)→シャグジ→御社宮神とした方が、諏訪では“手っ取り早い”でしょうか。

下浜御社宮司神社は稲荷神社か

 『諏訪史蹟要項』と一部内容が重複しますが、岡谷市『復刻平野村誌』から紹介します。

 下濱字濱浦にある。元御社宮司大明神。明治以降御社宮司社と稱(称)し、大正十一年(※9年)三月御社宮司神社と改称の件認可を得た。「小社神號記」に『往古御三狐神とも書り。然れば爰(ここ)に記すことあり、専女神は保食神御同體なり』とあり、また明治八年調査の「平野村誌」には祭神を猿田彦神と記してゐる。
 明治五年村社に列し、大正九年十月二十九日神饌幣帛料供進神社となる。

 前出の『諏訪史蹟要項』とともに、古文献では稲荷神を祭神にしていたことが窺えます。

御社宮司神社の祭神は、御社宮司神と稲荷神

 その後、御社宮司神社の境内に「稲荷神の痕跡がないか」と探す中で、「御社宮司社元宮」とある石祠に注目しました。「現在の本殿が建立されるまでは、この祠が本殿だった」ということですが、案内柱から、現在は「浦太郎社中」が祀っていることがわかりました。
 岡谷市内には幾つかの「浦野太郎社」があり、いずれも稲荷神を祀っています。そのことから、かつての御社宮司神社は御社宮司神と稲荷神を合祀していたという考えにたどり着きました。

社名と祭神の変遷

 『復刻平野村誌』に、「岡谷村明細書 枝郷 小尾口村 間下村 濱村(寫)」が載っていました。明和8年(1771)の奥書があります。

下濱村
一、宮社 貳ヶ所 御社宮神 山ノ神
一、堂  壱ツ 貳間ニ貳間
右貳ヶ條濱村と寄合持に御座候 

 社名は書いてありませんが、この時代では御社宮神を祀っていたことがわかります。

 総合的に考えると、それぞれの時代で優勢だった祭神をメインに据えたことがわかります。それは、確固とした神社名が無かったということになりますが、江戸の初期から徐々に消えていった下浜村の事情にあったことに重なります。


‖サイト内リンク‖ 浜村御社宮司社元宮