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浅田飴と諏訪大社前宮 14.7.14(27.4.23 改)

浅田飴の玉垣

 前宮社務所の横に旧道が通っています。「高道」と名が残るその古来からの道に接するように、玉垣の列が幾つかあります。普段は目にも留まらない存在ですが、帰るにはまだ明るいので、彫られた文字を読んでみました。

浅田飴

 「…浅田飴!?」につられて左右の石柱を確認すると、薬関係では浅田飴を含めて以下の5柱が見つかりました。

「浅田飴 堀内伊太郎」
「守田寶丹 守田治兵衛」
「太田胃散 太田信義」
「五臓圓本舗 大木口哲」
「實母散本家 喜谷市郎右衛門」

 この中で“初目”の薬名をネットでたどっていたら、『東京都家庭薬工業共同組合』のサイトに「伝統薬ロングセラー物語」がありました。浅田飴・わかもと・キンカン・太田胃散・トクホン・宇津救命丸・喜谷實母散・救心・龍角散・守田寶丹・中将湯・養命酒と載っていますが、その中に先の4薬がありました。また、五臓圓本舗も、大木製薬として存在していることが分かりました。

浅田飴本舗 「製薬会社は長寿」というと、ある意味で納得してしまいますが、現在でも江戸時代から続く超ロングセラーの薬があることに驚きました。漢方薬も薬事法などで成分が変わっているそうですが、各社とも横文字でない名前にこだわっていることがわかります。しかし、浅田飴本舗を始め、これらの製薬会社が信州の諏訪大社上社(旧諏訪神社上社)にどんな縁(ゆかり)を持っているのかはわかりません。
 浅田飴のサイトを開くと、「同郷の高遠藩の藩医浅田宗伯から喉飴の処方を教わった堀内伊太郎が、その縁で『浅田』の名を付けた」と紹介していました。諏訪大社上社は高遠藩とも密接な関係があったので、「わかれば玉垣寄進までの経緯を知りたい」とメールを出しましたが、未だに梨の礫(つぶて)で、完全に無視されました。

 他の製薬会社は長野県とは関係がないようですから、後に大正天皇の侍医となった浅田宗伯との縁で堀内伊太郎が発起人となり、彼と親交があった5人が玉垣を寄進したと想像されます。
 この5社の長寿も、現・諏訪大社上社前宮(正確には若御子社)の御利益のたまものでしょう。諏訪大社の“専門外”であると思われたこの分野も、三輪磐根著『諏訪大社』では、御神徳の一つは医薬とありました。

清心丹と泉鏡花

清心丹・高木興兵衛 實母散本家からさらに左へ目を移すと、同規模の地元の寄進者5柱を挟んで「清婦湯・清心丹本舗・高木興兵衛」が見つかりました(左写真)。先に挙げた五社は、通路を挟んではいますが、隣同士という配置です。それが、清心丹本舗だけがかなり離れた位置に置かれているのが不思議でした。
 ネットで調べると、「高木興兵衛」は表示しませんが、「清心丹」で泉鏡花の『高野聖』の一節が載ったサイトが幾つか見つかりました。「…ちょっと清心丹でも噛砕(かみくだ)いて疵口へつけたらどうだ…」とありますから、当時は名の知れた薬と思われます。泉鏡花も“愛用”していたのかもしれません。

 私には気になる玉垣の配列ですから、なぜそうなったのかを推理してみました。まず、浅田飴は石柱を二本寄進していますから、“隣同士”グループのまとめ役だったのは間違いないでしょう。その浅田飴が「本来は製薬会社の仲間に加わる予定だった『清心丹』を何らかの理由で閉め出した」と考えてみました。これは限りなく邪推に近いのですが、メールの返事が来なかった恨みで、つい…。

“第十代”の大木口哲は、長野県上田の人だった!! 27.4.23

五臓圓本舗 大木口哲 大木製薬の関係者から、このページについてのメールが来ました。改めて確認すると、この〔浅田飴と諏訪大社前宮〕は14年前に書いたものでした。“製薬関係の記事は長寿”を実践したようなものですから、メールの一部を紹介することにしました。
 写真の「五臓圓本舗」が、現在の大木製薬となります。そのため、ここに彫られた「大木口哲」が、後の大木製薬の創業者と思っていました。しかし、念のために調べると、初代から十代までが「大木口哲」を名乗っていたことがわかりました。
 そのため、メールの「10代」は「大木口哲が10代の頃」と解釈していましたが、「第10代目」の間違いとわかりました。以上、メールを読んでもらう前の“基礎知識”として書いてみました。

 大木口哲のことで調べておりましたら、浅田飴と諏訪大社前宮のページで玉垣の写真を拝見させていただきました。明治初期のものと思いますので、10代大木口哲の時代と思います。
 口哲は長野出身で丁稚から大木家に養子にはいりました。兄が長野で実家を継いでいます。はっきりしませんが、薬関係の仕事だったようです。
 明治に大木は大きく成長し、彼は東京売薬商組合の頭取をしておりました。記載されていた寄進した企業は同組合のメンバーではないでしょうか。浅田飴様も長野に関係があるのであれば、養命酒様も長野であることから、縁があったのに加え生薬の産地として薬企業にとっては重要な地点だったのではないでしょうか。
 東京は大空襲や震災などがあり、特に神田に多く集まっていた当時の薬企業は過去の歴史が全て焼失しております。東京売薬商組合関係の書類も探すことができませんから、浅田飴様もお返事できなかったのではないでしょうか。

 『国立国会図書館 近代デジタルライブラリー』で「大木口哲」を検索したら、墨堤隠士著『商人立志 豪商の雇人時代』を見つけました。明治38年発行の本ですが、ここに、彼の立身出世伝がありました。

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/777790/78

 直接には関係ありませんが、母と姉からよく聞いた「東京大空襲」のことを思い出しました。焼け出されて父の実家である長野県へ帰ってから生まれたのが私、と書くと、年がバレる…。