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荒玉社・荒玉大明神 茅野市前宮 16.12.29

前宮の荒玉社

昭和の荒玉社 荒玉社は、古い本の写真では「田んぼの中の一棟祠」として写っています。左は、昭和12年発行の宮地直一著『諏訪史 第二巻後編』「図版・第35図」です。
 現在は若御子社の左側に移転していますが、板囲いに砂を入れた基壇上に座っています。仮鎮座だとは思いますが、何年経っても「現状維持」の状態が続いています。

 正月一日、新玉社・若宮宝前を拝して、祝以下の神官・氏人皆衣服をただ(正)しくして参詣す、
諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書』から『諏方大明神画詞』

荒玉社 左写真は、真新しい注連縄が掛かった平成16年大晦日の荒玉社です。同じ年末ですが、クリスマスイブ、…とは全く関係ない12月24日に荒玉社祭があります。
 宮坂光昭著『諏訪大社の御柱と年中行事』では「荒玉というのは(稲の)新霊のことで、字の仮借、すなわち置き換えである」と解説しています。「新玉」ですから本来は年の初めにお祭りをするのが“スジ”ですが、神事の主流が本宮に移ったために、その役目は「本宮の荒玉社」が担っています。中世の書物『年内神事次第旧記』では、24日の「大海祭」の一環で「荒玉・前宮・笠無御手幣一束づつ参」と書いているので、「年頭は本宮で、年末は前宮で締める」というのが現代の荒玉社祭でしょうか。

荒玉社が消えた

 平成20年元旦、「蛙狩り神事」の帰りに前宮に寄ってみました。正月とあって、いつもはいない巫女さんがガラス窓越しに人待ち顔です。
 若御子社を見ながら歩調に合わせて左に視線をずらすと、…ありません、荒玉社が! 瞼を一度強く閉じてから注視し、さらに近寄ります。しかし、その辺りを見回しても痕跡すらなく、きれいに消えていました(私の断りなしに)。仮鎮座の様子から、いずれはどこかに落ち着くとは思っていましたが…。振り返ってアルバイトの巫女さんの顔を見ましたが、そこまで研修を受けているとは思えません。今日のところは、「早く帰って雑煮を食べなければ」と“荒玉社跡”を後にしました。

新鎮座地

 1月28日。前宮の社務所で荒玉社の移転先を聞いて写真を、と本宮から前宮へ向かいました。右折の体勢で待機しますが、不思議と対向車の列が途切れません。左側に駐車場として使える「空地」がありますから、そちらにハンドルを向け直しました。車は四駆ですが、社務所脇の旧道へ合流する急坂スリップが頭の隅にあったのかもしれません。

荒玉社 この一画には「諏訪大社前宮」の大きな看板が設置してありますが、「駐車場」の表示がありません。隣が事業所なので、ここ何年も「諏訪大社の駐車場なのか」悩み続けています。
 降りようと左に顔を向けると、ウィンドウ越しに新しい玉垣が見えます。そこから頭を出した古祠を見て、「荒玉社だ」と直感しました。移転先はここでした。
 立ちアングルでは背後の人家が気になるので、腰を落として撮ったのが上の一枚です。玉垣だけが新しいので何かチグハグですが、“引越祝”の意味もあり深々と拝礼しました。帰りの車中で考えてみました。なぜ左折したのだろうと。対向車が2、3台だったら、何も考えずに右折したでしょう。やはり、「引っ越ししました」と荒玉社から転居先を知らせてくれたような気がしました。

旧鎮座地

 細田貴助著『守矢文書を読む』に、「今も歩ける五〇〇年前の大祝十三所社参の道」が載っています。現在はどうなっているのだろうと「その地図にある荒玉社」へ行ってみました。ところが、…区画割りされた舗装道路に沿って建つ新しいアパートに、痕跡ですら確認できませんでした。
 別書の『諏訪大社の御柱と年中行事』には、「水田中にぽつんと残る荒玉社の石祠」とキャプションが入っている写真があります。初版が1992年とありますから、発刊後に前宮境内へ移転したのでしょう。それを見ることがなかったことを悔やみましたが、その当時は、諏訪大社は眼中にありませんでした。

荒玉社推定地 国土交通省の「国土画像情報」に、昭和51年撮影の航空写真があります。それに、荒玉社の旧鎮座地を当てはめてみました。本の写真「祠の後ろに木・背後に宮川の堤防・(解説の)水田中にぽつん」に、航空写真の「前宮本殿から右斜め上に伸びる道(の延長線上)・写っている小さな木(緑の塊)」を“合体”させると、右上が「推定地」となりました。
 前宮前の田園は、保育園や茅野シティホールを始め、パーラーやコンビニ(2店)ができ、寒天工場なども一新して大きく変わっています。航空写真ではハッキリ見える「中田通り」も現在は消滅しました。


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