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籬太夫と太夫久保 諏訪市四賀 23.1.30

 書き上げた日付は「上記の通り」ですが、平成19年7月23日の写真と記憶を基にした《諏訪大社散歩道》です。ネットで「手長神社は、茅野外記太夫によって祭祀が行われていた」を読んだことで、“構想”のみで長い間放置してきた「籬太夫(まがきたゆう)と太夫久保(たゆうくぼ)」をまとめることができました。

太夫 諏訪神社上社の「五官」は有名ですが、その下位に位置する神官は意外に知られていません。冒頭の「外記太夫」を含む「太夫職」
が、細野正夫・今井広亀著『中洲村史』の近世〔上社の祀職〕に載っていたので以下に紹介します。

 大祝の下には直属する政所(まんどころ)土橋氏・両奉行の外に宝剱持の宮島氏があり、神社につくものに大工棟梁の原氏、饌司雅楽(うた)には山口氏ほか一〇人。神楽役は外記太夫(茅野氏)・源太夫・葛井太夫・左源太夫・左近太夫・真籬太夫・小萩太夫(※『下諏訪町史』)・左門太夫・右門太夫・坂室太夫・左内太夫・右内太夫があり、神事頭首小坂氏、同鹿人(ろくびと)金井氏、(後略)

 私は「下級神官」としか見ていなかった「神楽役」でしたが、前述の「手長神社・外記太夫」と「葛井・坂室」から、それぞれの神社の祭祀と管理を兼任していたことが見えてきました。標題の「籬太夫」は、その屋敷近くにある「手長神社・荻宮社・御曽儀神社」のいずれかを管理していた可能性があります。

 これから「籬太夫小さなタイムスリップ」が始まるので、日付を留意して混同しないようにしてください。

籬太夫と太夫久保

 以下は、平成18年7月9日に、足長神社の近くにある荻宮社を参拝したときに地元の人から聞いた話です。メニュー「荻宮大明神」に載せたものですが、その一部に新たな内容を加えて転載しました。あくまで「聞いた話」なので注意して下さい。

 本家は「まがきたゆう」の直系で、今でも墓石は「○○神霊」になっている。明治までは、上社大祝が太夫の家に寄り、休憩後に太夫の先導で御曽儀神社へ向かった。足長神社の裏に「たゆうくぼ」があり、本家の家と墓がある。本家は火災に遭ったので御曽儀神社の上に移り住んだが、そこも洪水で流されてしまった。

 「これ(災難が続いたの)は何かがある」と思いましたが、本家(親類)の不幸話なので「何か」の根と葉を掘ることは控えました。この時に初めて知ったのが「まがきたゆう・たゆうくぼ」ですが、この付近を通る「鎌倉道」のルートを調べる中で、「籬太夫・太夫久保」に変換できました。久保は地形の「窪」でしょう。

籬太夫増沢氏

 『四賀村誌』の「上社大祝の祖・有員親王」の章に「御曽儀神社」があります。「御衣着祝」で知られる諏訪神社上社「中興の祖」と称えられる大祝有員(ありかず)(ゆかり)の御曽儀神社です。

 御曽儀神社の例祭は、諏訪上社の大祭である御頭祭の翌日、大祝家が祭主となって行われた。宮田渡から行列を作って籬太夫の邸に来た大祝は、ここで装束を改め、太夫の案内で御曽儀神社に向かい、神社の東下、太夫の田に行列の持物(長槍・幟など)を立て並べて、祭典を行ったと言われている。
 この例祭は明治になると、大祝家必参で、普門寺(普門寺組・中組・田中組)が行ってきたが、昭和53年(1978)から上社の神官になった。大祝の職に就くことを職位または即位と言ったが、明治維新までこの即位の時は、必ず、報告のため御曽儀神社に参拝に来たと言われている。
【籬太夫】増沢氏。有員親王のお供をして来た人の後裔と言われ、御曽儀太夫とも呼び、代々神職を勤めてきた。足長神社の東側に住み、後、御曽儀神社に近い現在地(字中組通り上手組)に移ったと言われている。足長神社の東側の久保を「太夫久保」と言い、増沢家の墓地がある。

太夫久保

 平成19年夏。足長神社がある山裾に、山の中へ分け入っていくような狭い道がありました。右側の民家共々窪地の縁(へり)といった場所です。入口にある半分埋もれた石仏や石祠を見て、太夫久保に踏み入りました。すぐに家と畑は無くなり、道以外は緑に覆われました。

太夫久保

 梅畑と思われる樹間からわずかに見えるのが諏訪市街です。木がなければ諏訪大社が見えるかもしれません。「くぼ・窪」と呼ばれるように、狭いながらも小尾根に挟まれた平地が上に延びています。

籬太夫家の御社宮神 足長神社から続く斜面直下に石祠がありました。祠からは何も手掛かりが見つけられませんが、これが「足長神社の裏にある」という籬太夫・増沢家のミシャグジ社であることは間違いありません。この近くに屋敷があったのか、この場所から離れたときに現在地に移したのかはわかりません。

籬太夫の墓地

太夫久保 祠の近くに山裾に沿った石造物が並んでいます。墓地の写真をHPに載せるのは抵抗がありますが、由緒ある籬太夫のお墓です。離れた位置から撮った写真を載せました。古い墓石には神式の「○○神霊」と刻まれています。左の黒い石塔には「増沢家之墓・霊前」と彫られていますから、現在は「仏式」で祭っているのでしょう。

 最終的に久保(窪)の最上部まで行ってみました。突き当たりはかなり広い平地になっていましたが、資材倉庫があるだけでした。周囲の山には地肌が大きく見えていますから、広範囲に土砂等を採掘した跡でしょう。前を遮る小山の向こうは、位置的に「足長丘公園」と思われます。

 籬太夫に関しては以上のことしかわかりません。当て字を含めた「籬」の語源から何かを見つけることができそうですが、今のところ「竹や木・柴などで作った目の粗い垣根」と言うことしかできません。


‖サイト内リンク‖ 大祝縁の「御曽儀神社」