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松湛木(松木湛木)跡 諏訪市神宮寺

古絵図に見る「松湛木」

大祝邸と松湛木  宮地直一著『諏訪史第二巻前編』では、「七石七木の所在地説」を一覧表にしています。最下欄の「現在推定地」に目を移すと、「松湛―諏訪市神宮寺宮田渡大祝家」「檀湛―諏訪市南真志野野明社下、流鏑馬社前の田」と書いてあります。
 左は、江戸初期作と伝わる茅野市神長官守矢史料館蔵『復元模写版上社古図』から、宮田渡の「大祝邸」付近を切り取ったものです。上の赤丸に注目してください。祠の下に「檀湛」と書いてあります。

松木湛「諏訪藩主手元絵図」 一方、享保年間に描かれた『諏訪藩主手元絵図』があります。90°左回転させた諏訪史談会の『復刻版』で見ると、ほぼ同じ場所に「松木湛」と書いてあります。繰り返しになりますが、『諏訪史』の「現在の推定地」では「宮田渡大祝家」ですから、「いずれかが間違い」となります。
 これは「誤記」というより、時代差で「湛木」の“交代”があったと考えた方が自然でしょうか。言い方を変えると「その時代の湛木」となります。


松木湛木跡「航空写真」 古図・絵図のエリア内に「檀または松の湛木」があると(仮定)して、それを現在の地図に置き換えてみました。距離も方角も「適当な絵図」を参照するのは無理がありますが、それを承知で「千躰佛」と「大祝邸」の位置関係から特定してみました。
 この航空写真は、国土交通省の「国土画像情報」です。昭和51年撮影と古いのですが、まだ開発前とも言える人家の少なさがこのサイトと相性がよく、大変重宝しています。数字では110゜右回転させ上の絵図に対応させました。
 下部の「旧大祝邸」の右から「千躰佛・地蔵堂」にかけてのカーブした線が絵図にある川です。それに、絵図の道と「千躰佛」を重ねると、「松・檀湛木跡」は[]の位置になりました。

 江戸時代の『諏訪郡諸村並旧蹟年代記』から「宮田渡村」の項です。

(前略) 同村道祖神辻に(実)は柳木にて松湛木といふ凡(およそ)四五かひも有之(これあり)、生枝少しニ而(て)朽木と成候、文化年中大祝館に伺ひ伐其後退転也、

 「道祖神辻・伐採する時に大祝の許可をとった」と具体的に書かれています。ここでは「松湛木は柳」という表現なので、絵図や文献の時代差から「檀→松→柳」という変遷が考えられます。また、「実より名を取る」“暗黙の了解”があったのかもしれません。

道祖神辻・湛木・ゴミステーション

檀湛木跡か?「道祖神辻」 左は、今橋(旧・宮田渡村)の大祝邸に近い印の辻の一画です。(その効果は別として)あえて交差点を「辻」と書き換えクラシカルな情景を演出してみました。
 その辻を強調するために道も広く入れてみましたが、中央の小屋二棟はせっかくの雰囲気を壊すゴミステーションです。その向こうにハシゴと半鐘、さらに、(写真には写っていませんが)中央の柱の上には区内放送用のスピーカーが見えます。まさに、この付近を“代表する辻”となっています。その右に小さく写っているのが、道祖神や二十三夜塔などの石造物の一群です。(一村一社の煽りで、石造物を寄せ集めた可能性もありますが)現在だけでなく、古くからの辻と分かります。

 ここが「道祖神辻」とすれば、この場所に松(檀・柳)湛木があったことになります。それが「跡」となっても、庚申待ちや道祖神祭りなどの住民の「拠り所」となり、さらに現在の“ゴミステーション”に繋がっているのでしょう。