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御佐久田明神・御作田明神 諏訪市中洲(神宮寺村)

 文献の違いで、御佐久田・御作田・御作久田・御社久などと表記の「ゆらぎ」があります。本文は、直前の文献の名称に合わせました。

十三所の御作田 諏訪大社上社本宮の摂末社遙拝所に「御佐久田」の社号額が掛かっています。ところが、その社殿がある場所が特定できません。


「神宮寺村にあり」

 図書館にある本を参照すると、各書には「中十三所の御作久田」と名前だけは載っています。その中で唯一鎮座地の記述があったのは、「文政二年(1819)撰述」とある『信濃國昔姿』でした。

一、御作田神社 神宮寺村にあり
諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書』

 同書には、本宮境内の社殿などを詳細に解説したものをリスト形式で書いてあります。その中に「五穀種池」がありました。

神前の北の方往古御作田の神事有りし所也、天正十年兵火の後絶えてなし、今も世人五穀を紙に包みて彼(かの)種池に浸して吉凶を占うなり

五穀の種池 清祓池の前にあるのが、石造り八角形の「五穀種池」です。「昔はここで御作田神事があった」と書いているので、「御作田社は神宮寺村にある」を考慮すると「御作田社は境外にあるが、御作田神事はここで行われた」となります。これでは何か変な話になるので、同名であっても、御作田社と御作田神事は無関係としました。

御作田神社はどこに

 神宮寺(地区)にはその名前の神社はありませんが、「地名の御作田」は、八ヶ岳山麓の茅野市「御作田」に求めることができます。しかし、この字(あざな)は、「(旧)御作田新田村」が由来です。それが「御作田御狩神事」が行われた場所という理由で命名したことは容易に想像できますから、「御作久田明神」とは関係ないことになります。

文献に見える御作田社

 『諏訪史蹟要項』の「蛭子社」の項に、「天正六年(1578)上諏訪造営帳には」という書き出しで、瀬社・恵美酒(蛭子)社の次に、御作田明神御宝殿(※本殿)が「丙寅春社頭ヲ立 壬申年ハ廊立」と書かれています。ところが、天正六年は「戌寅」です。そこで天正六年以前の「丙寅・壬申」を調べると、「前々回・前回」の式年造営(御柱)年が該当しました。
 『造営帳』は式年造営の記録なので、6・12年前の「立」が書かれているのは不自然です。その実態も、元亀3年(1572)に御作田社の本殿・その6年後にようやく拝殿・当年は無しですから、式年造営が滞っていることがわかります。これ以降は、図書館にある資料には式年造営の記録がないので、どうなったのかはわかりません。

御作田神を藤嶋社に合祀

 宮坂清通著『諏訪の御柱祭』に、「鎌倉時代の『嘉禎記(かていき)』に、(中略)藤島社に、御社久(御作・みさく)神と罔象女(みづはめ)神を併せて祀り(中略)、と書かれている」と載っています。『嘉禎記』では確認できませんでしたが、代わりに、『復刻諏訪史料叢書』収録の『神長重實藤島社祝詞』に「藤嶋の社御社久神のやしろをうつしまつり罔象女神をあはせ祭り奉る」とあるのを見つけました。文脈からは「藤嶋社に合祀」ではなく「藤嶋社と御社久社を移し祀った」ように取れますが、とりあえず以下のように解釈しました。
 まず、「御社久神=ミシャグジ」とした方が無理がありませんが、前宮がミシャグジの“ホーム”なので、改めて摂社藤島社にミシャグジを合祀する理由がありません。一方、「御社久神」を「御作田神」とすれば、本殿の造営が退転したために御作田明神を(やむを得ずに)藤島社に合祀したことが考えられます。これなら、現在も社殿が存在していない説明がつき、『信濃國昔姿』の「所在地神宮寺村」とも矛盾しなくなります。

御作久田神事は退転

 『叢書』収録の『守矢家諸記録類』から、嘉禎4年(1238)の「神事次第(前缺)」と「嘉禎神事事書(前缺)」です。いずれも抜粋です。

一、六月晦日 御作久田神事 奥小泉神主・権祝 今は之無し

一、同日 御田神事 神田五反 武井条之在り、
廿九日、(前略) 晦日(御作田御狩から)下御(くだりまし)、大宮前にて御作田殖(植?)、神使(おこう)殿六人・色装五人・雅楽(がこう)十人・八乙女(やおとめ)八人也

 記録上では、「今これ無し」から、嘉禎年中以前に「御作久田神事」が退転していることが読み取れます。そのために社殿の式年造営が行われなくなり、(ホームレスとなった)祭神を藤島社に合祀という流れになったのでしょう。また、「御作久田神事の代わりに御作田植神事をやっている」ことがわかります。

 再び『上諏訪造営帳』に戻ります。ここでは「1572年に本殿を建て替えた」ことになっていますが、すでに330年以前の記録「神事次第」で「御作久田神事は無し・祭神は藤島社へ合祀」していることがわかっています。そのため、御社久神=御作田神を前提にすれば、当然ながら矛盾が生じます。
 これには、都合がよいと言うか、それを説明できそうな「説」があります。相次ぐ戦乱で困窮した諏訪神社が、過去の実績と同等の金額を請求するために「造営する実態が無くなっていても、その名目で造営銭を集め続けた」というものです。それを取り入れると、帳簿に虚偽の実績を書き加えたものが「天正の造営帳」と言えるのかもしれません。今で言う“粉飾決算”のようなものでしょうか。時は戦国時代とあって、すでに多くの社殿の式年造営は退転しています。

細田貴助著『県宝守矢文書を読む』

 色々と並べてみましたが、「作と社」の違いもあって、今一つ「御社久神を藤島社に合祀」とは言い切れません。結局は、大ざっぱですが「御作田社の鎮座地は、江戸時代の書物による神宮寺村」としまた。しかし、「御作田社に関するキーワードを収集した」と読んでくれれば、一定の価値はあるでしょうか。

「御佐久田明神を降ろし奉る」

 「御田植え神事」で撮った田舞の写真を見ていると、藤島社とは別に、斉田を正面にした場所にも献饌の品が置かれていることに気がつきました。「田舞」も斉田を正面にして舞うので、下社の御作田社のように、かつては斉田の近くに社殿があり御作田神事が行われていたと考えることができます。

田舞 平成24年になって、何回も神事に立ち会っているのですが、神事式次第で「降神・昇神」の声を初めて耳に留めることができました。
 神事に先立ち「祭壇の中央にある幣帛(矢印)に神を降ろす」ことが「降神」ですから、献饌も田舞の奉納もこの幣帛が対象と明解に理解できます。こうなると、“今日の神事に相応しい”神は「御作田明神」ということになります。
 これで、時代の変遷で社殿を造営することがなくなったために「空に戻っていた御作田明神を、御田植祭の日に降りていただく」というのが、現行の“祭事方式”となります。ここまで書いて、一つの考えが浮かびました。
 改めて今日の神事を振り返ると、田植えには藤島社(明神)は関係ないことに気が付きました。藤島社に御供えが上がっていても、それは合祀された御作田明神が対象であると見たほうが合理的です。ここで、ようやく、前記の「御作田明神を藤島社に合祀」したことが現在の神事に重なりました。やはり、祠の中ではなく、斉田の正面にお出まし頂くというのが「降神」でしょう。
 この変遷ですから、諏訪大社上社の周辺をいくら探しても御作田社が見つからないということになります。


‖サイト内リンク‖ 合祀の記述がある『神長重實藤島社祝詞』