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御射山社−御射山御狩神事が行われた富士見町指定史跡− 15.9.28

御射山社
覆屋内に国常立社と御射山社が鎮座

 御射山社や御射山祭(御射山御狩神事)は数百年にわたって継承されたため、時代によってかなりの変遷があります。諏訪大社関連の「本」では時代を追って解説していますが、それを要約してHPに載せるのは、難題というより無理があります。
 そこで、御射山社境内にある「入会権部落十六区」が建てた記念碑をそのまま紹介する、という“安易”な方法をとりました。句読点や改行・ふりがなを(了解なしに)加えましたが、それでもまだ読みにくい碑文です。富士見町教育委員会が設置した案内板もありますが、より“専門性”が高いこの碑文を一度は目を通してください。

南下原山整理記念碑
御射山社「南下原山整理記念碑」 御射山の野は諏訪上社と由緒深き地なり。往時盛大に行われたる押立・御作田・秋尾と共に、年四度の御狩神事中最も重きをなしたる所。
 七月廿六日より卅日に至る五日間の信濃国第一の大営神事にして、嘉禎記に御射山社は建御名方命と国常立尊即ち大元尊虚空蔵を祀る祠と、三十間を距(へだ)て四御庵・磯並・子安・神功皇后の四座向合の社あり。
 廿六日、大祝・五官・両奉行・大政所・行事・郡長吏等前宮を立ち、騎馬の行列「十三所神名帳」なる銅札を附したる鉾(ほこ)牽馬五十余頭大神に供奉(ぐぶ)し、酒室神事を終り長峯にて狩り乍(なが)ら裾野を分け物見ヶ岡に至り大鳥居を経て原山に達す。此所に穂屋新たに建て並び其屋に入る。同夜神楽鉦鼓の音につれ巫女の託宣喧(かまびす)し。
 廿七日より廿九日に至る三日御手倉(みてぐら)あり贄の鷹狩あり。廿九日矢抜の式ありて祭事を了す。上社より神霊を此地に移し狩の獲物を供し犬追物流鏑馬(やぶさめ)等の武戯を演じ皇室将軍武将等を招きたるものにて、会津松は会津侯の座席址なりと。
 その後此の霊地は十六部落の所有となり近年迄競馬等ありしも廃止され、大東亜戦争後の時代の推移に伴い、開墾地は法に因り譲渡し神社近接地は寄進。他の原野は処分し全く整理成る。仍(よっ)て茲(ここ)に石に刻し永く後世に伝えんとす。
昭和三十三年十月 細川隼人撰 
守矢眞幸書 
御射山社境内
鳥居から大四御庵方面(左は覆屋)

 御射山社は、諏訪南インターの極近という、車社会にとっては一等地になりました。しかし、周辺にある工業団地への進出はこのところの景気で足踏み状態が続き、周囲はまだ畑と林で占められています。社地も半分になったとはいえ、まだまだ広大な神域が残っています。その上、「史跡」のような神社ですから、賑わうのは御射山祭の期間(それも本祭りの一日)だけで、人に会うことはありません。

御射山社境内 上写真の参道を奥に向かうと、今は石造りとなった大四御庵・磯並・子安・神功皇后の各祠が現れます。
 右に見える建物は膳部屋です。御射山祭の期間中は壁がススキで囲われますから、現在では唯一の「穂屋」となります。ここで、諏訪大社の神職が参籠します。
 これらの詳細は別メニューで取り上げていますから、境内の様子はこれで終わることにします。

御射山社奉納額「金的中」

御射山社「金的中奉納額」 御射山社の背後に廻ると、「金的中」の奉納額があるのに気がつきました。昭和56年から58年にかけての3枚です。御射山社案内絵地図に「的矢場」と書かれてある辺りを見回しましたが、弓競技が行われたような痕跡はありませんでした。かつての御射山御狩神事「武技競べ」にあやかり、弓技が上達するように祈願する額でしょうか。
 辞書で【金的】を開くと「3センチ四方の紙に書いた金色の弓の的。直径9ミリぐらい」とあります。弓道の的は「白地に黒の同心円」だったような記憶があるので、「金的中」を検索してみました。たどり着いたのが、HP『弓祭り』です。そのメニューの一つ「お祭り弓へようこそ」で、弓祭りで金的を射止めた人が記念として奉納するのが「金的中」の額とわかりました。
 御射山社で弓道大会があるとは聞いていません。この3年間だけ行われた・その後一回も金的が射止められなかった・金的の競技そのものがなくなった、などが考えられますが現時点では不明です。
 同HPの「神事における御弓祭りの考察」の一項「お祭り弓の起源」に興味深い文を見つけました。愛知県鳳来町能登瀬にある諏訪神社の「鹿射ち神事」の内容が、記憶にある『諏方大明神画詞』の「草鹿」と同じだったからです。

(前略) 槙木(まき)立てて上矢を射立ててたむけ(手向)とす、鹿草原にして草鹿(くさじし)(※草で作った鹿)を射て各々さと(里)に帰る、
『諏方大明神画詞』「69」

また、武井正弘著『年内神事次第旧記』で確認すると、注記に

御射山での儀式を終え下山するときの神事で、諏訪では廃れたが天竜川中下流域の諏訪系の神を祭る集落に残されている。

とあり、それが能登瀬の諏訪神社であることがわかりました。
 御射山社の「金的中」奉納額から「弓祭り」の世界に飛び込み、さらに鳳来町の諏訪神社へジャンプし、再び諏訪上社の重要な「御射山御狩神事」に戻るという、自宅に居ながら日本中を駆け巡ることができるインターネットの世界に改めて感謝をしました。

御射山社奉納弓道大会 17.8.27

 今日は、御射山祭中日の本祭りです。「祭り日の境内は」と社殿を右に見てから鳥居に向かうと、木々の間に幕が張られています。何事か、と近づくと「奉納弓道大会」でした。案内絵地図では、的矢場とある場所です。大会はまだ始まっておらず、試技を繰り返していました。

御射山社奉納弓道大会 諏訪大社の神紋・的・御射山祭に欠かせないススキ・これは絶対“外せない”射手と、全てが入るアングルを計算して撮りました。腕の筋肉と髪の照りが効果的という“結果写真”ながら、自画自賛しました。下中央から右上に延びるている黒い帯状の線が目障りですが、これは、横の木に立て掛けた弓です。
 望遠側で撮ったので距離が詰まっていますが、的の距離ははるかに離れています。調べると「近的」で、的の直径36cm・距離は28mとありました。今回限りだったのか毎年行われているのかわかりませんが、まさに御射山祭に相応しい“お祭り”でした。

 平成20年9月3日。地元紙・長野日報に「木立の中一矢必中」の見出しが踊っていました。記事に「第28回・御射山社奉納弓道大会」が8月31日に行われた、とあります。逆算すると、昭和56年から途切れることなく行われていたことがわかりました。競技以外(アトラクション)は「板割」と「扇的」だけなので、「金的」は現在行われていないようです。優勝者には、大会を創設した故牛山吉夫五段に因んだ「牛山杯」が贈られた、とあります。念のために「金的中」奉納額の写真を確認すると、左の額が「牛山吉夫」その人でした。

会津侯ゆかりの「会津松」 20.9.10

【陣場・会津松】 古来陣場と呼ばれている所で、会津侯(保科氏、後に松平を称す)が社参して植えられたという古松が今もなお残っている。
富士見村誌刊行会『富士見村誌』

御射山社「会津松」 境内南側の車道を東に歩くと、右側の斜面に「会津松」があります。写真は平成20年7月11日のものですが、9月3日の時点では緑の葉がまったくありませんでした。寿命なのかマツクイムシの被害なのかわかりませんが、これで由緒ある松も「跡」という名前になるのも近いようです。

枯れた会津松 平成22年8月の会津松は完全に枯れていました。すでに名のみの縁(ゆかり)となった「会津」ですが、ここで、コラムで紹介した「会津侯」について少し補足します。
 会津藩の初代藩主が保科正之(ほしなまさゆき)侯で、諏訪から峠を一つ越した高遠藩(伊那市高遠)で幼年期を過ごしたそうです。平成25年では、NHKの『八重の桜』を挙げるとわかりやすいでしょうか。ドラマの中でよく出る「ならぬものはならぬ」に代表される『会津家訓十五箇条』を作ったその人が松平(保科)正之です。

枯れた会津松 枯れた会津松は平成24年に伐採され、現在は境内で“展示”されています。ここで“スペース”が余ってしまったので、会津の諏訪神社について書いてみました。
 かつては、高遠は諏訪の一部で、諏訪神社上社(現諏訪大社)と強い結びつきがありました。高遠藩主保科正之侯が会津へ転封になった縁でしょう、福島県会津若松市には諏訪神社があり「御射山」もあると聞いています。また、諏訪には「会津比売命」を合祀する神社もあります。私も「一度は」と思っていますが、会津の諏訪神社と御射山の参拝はまだ果たしていません。


‖サイト内リンク‖ 御射山社「伝大祝有員の墓」