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諏訪氏安国寺御廟所(諏訪満隣墓) 茅野市安国寺 23.7.15

諏訪氏安国寺御廟所
御廟所

 諏訪満隣(みつちか)公の廟所を正面から撮ったものです。右の「東洋精機」や高遠に向かう国道の橋脚が目障りですが、「現在の景観がわかる」として、あえてコンクリートの構造物も入れてみました。これは後からわかったのですが、橋脚の下(向こう)にある墓地は「安国寺墓地」で、この附近に安国寺があったと伝えられています。さらに、廟所の背後の山に「干沢城」があったことも知りました。
 実は、前々からこの墓所が気になっていましたが、「諏訪大社と諏訪神社」には余り縁が無さそうと放置してきました。その後、諏訪満隣はこのサイトでも取り上げた諏訪頼忠の父と知り、帽子を持ってこなかったことを後悔する日射しに焼かれながら参拝してきました。

諏訪氏安国寺御廟所(諏訪満隣の墓) 用水路を渡って境内地に入るという状況なので、夏草の根元がコケで覆われているのがわかります。風通しが良いので湿気は余り感じませんが、足先に、まだ小さいカエルが逃げ道を求めて飛び跳ねます。“今年度の整備”はまだのようで、一面ボーボーという草を踏んで覆屋の前に立ちました。

諏訪満隣の墓碑 中央が満隣公の墓碑です。始めの一字が読めないので「省略」という手を使いましたが、安国寺にある位牌から「中興安国寺殿竺渓中派大庵主覚霊」としました。
 左の塔に「天正十年壬午年」とあるので、「これは古い」と色めき立ちました。最下部を除き風化の痕跡がまったくない疑問も覆屋があったためとしましたが、木陰で頭が冷やされたのか「これは没年」と納得しました。案内板にある嘉永5年の修築時に建立した「妻」の供養塔でした。右は、「大正寺殿一鶚普慶大禅定門神儀」とある満隣の兄頼高の供養塔です。

 境内の左側に沿って茅野市設置の史跡指定の石角柱と案内板があり、四百年忌に建てられた「建立の記」碑と旧高島藩主十四代諏訪忠則謹書とある「至誠護血脈」碑が並んでいました。
 「諏訪氏安国寺御廟所」の“ガイド”は、案内板と「建立の記」に詳しいので、私の出番はありません。すべてそちらにお任せしました。

市指定史跡 諏訪氏安国寺御廟所
 諏訪頼重が天文十一年(1542)武田氏に滅ぼされて以来、諏訪は武田の統治するところとなった。頼重の叔父諏訪満隣は剃髪して僧体となり、竺渓斉と号して安国寺に諏訪氏の系図と位牌を託し、安国寺や湖南の竜雲寺等にひそみ、武田氏支配の四十年間を耐えて諏訪氏再興の機を待っていた。天文十四年に満隣の第二子頼忠は上社大祝となり、天正十一年に徳川家康から旧領を安堵されるまで続いた。
 この御廟所の碑には、「安国寺殿竺渓中派大庵主」と刻し、一つには「桂巌芳樹大姉」と刻してある。これは満隣夫妻の法号で、他の一つは満隣の兄頼隆の供養墓碑である。江戸時代に諏訪氏が建立して祭祀が行なわれ、御廟所の修築に嘉永五年から資金として百五十両と年々蔵方から米二十五俵の寄進を受けて来た。
 昭和三十四年の台風で廟屋は倒れたが、墓碑と宝篋印等二基が往時の面影を止めている。
四百年忌碑建立の記
 世は戦国、諸国に群雄割拠して争乱の渦中にありし天文十一年、甲斐の武田晴信は天下制覇をねらい、先ず諏訪攻略にかかり、惣領家の当主頼重公は自刃、滅亡の事態となる。
 この危急存亡のとき諏訪満隣公は名族諏訪氏の血脈を守り、その保持に心を砕き自らは剃髪して仏門に入り竺渓斎と号す。
 頼豊、頼辰の二子は武田方に働かせ、それぞれ討死し、その間深慮遠謀して苦節四十年、やがて武田氏滅亡、織田信長また本能寺に討たれるや、満隣公は直ちに次男頼忠をして決起させ茶臼山城を奪回し、ここに近世諏訪氏再興の道を切り開く。
 それを見届けるかのように天正十年十月朔日、満隣公はこの地に没し、同夫人、兄頼隆公と共にこの廟所を葬地となす。
 以降四百年の星霜を経て、なお満隣公の忍耐、智略、勇断の功績をたたえ、後世に伝えんがため、ここに諏訪家の方々はじめ地元篤志の人々の協力により本碑を建て供養す。
昭和五十七年十月三日 発起人会 

 これを読んで、初めて「諏訪頼重自刃以降」の諏訪家の歴史がしっかり頭に入りました。

 用水に沿って続く田中の小道を伝って、諏訪満隣公縁(ゆかり)の安国禅寺まで足を延ばしました。この寺は「江戸時代に現在地に移転造立」とある再建された安国禅寺なので、足利時代に全国に建てられた安国寺とは厳密には異なります。しかし、屋根の大棟に諏訪梶が掲げられ、仏殿の正面にも諏訪梶と足利氏の家紋「丸に二つ引両」が並んでいるので、まさしく「諏訪家縁の安国寺」でした。

『ウィキペディア』を引用すべからず!!

 『ウィキペディア(以下ウィキ)』を非難しているのではありません。“ウィキの編集者は市井の人(ボランティア)”ということを頭に置いて利用しないと「(引用したことで)他人を惑わす場合がある」ということです。
 以前、「ウィキからコピペ(コピー&ペースト)して論文を書いたのがバレた」ことが話題になりました。“手軽で便利な”ウィキですが、それも「正確」という前提があればこそです。私は「いい加減な記述(編集者の思い込み)がある」のを知ってからは、必ずその“裏”を取ってから引用することにしています。

 ネットで「諏訪満隣」を検索したところ、ブログやサイトによって「諏訪満隣の没年」にバラツキがありました。大体二系統に分かれるので、何かあるとにらんで、ウィキの「諏訪満隣」とその長男「頼豊」を参照してみました。「やはり!!」でした(23.7.14現在)。
 以下の内容はそれを「コピペ」したものですが、比較しやすいように文体を揃えてあります。“同じ作者による原稿”の可能性が高いのですが、今問題にしているのは「諏訪満隣の没年」なので、その部分だけ注視してください。

諏訪 満隣すわ みつちか、生年未詳−天正10年(1582年)]
 戦国時代の武将。諏訪頼満の次男。子に諏訪頼豊・頼忠。通称、新太郎、あるいは新次郎。伊豆守。号は竺渓斎。
生涯
 諏訪一族の一人として重用されたが、天文11年(1542年)、甥諏訪頼重が武田晴信(信玄)によって攻められると抗戦するが敗れて降伏、出家して竺渓斎と号した。同族の高遠城主・高遠頼継が諏訪で反乱を起こすとそれの討伐に従軍、以後も武田氏に従った。天正10年(1582年)、武田征伐により子の頼豊は戦死し、武田氏も滅亡するが、次男頼忠を擁立して諏訪氏再興を目指した。同年没
諏訪 頼豊すわ よりとよ、?−天正10年3月(1582年)]
 諏訪満隣の子。諏訪頼忠の兄。信濃の諏訪氏当主。武田信玄・勝頼に仕える。官途名は越中守。
生涯
 1542年、従兄弟の諏訪頼重が武田信玄に敗れて殺害され、さらに1545年に父満隣もまた信玄に殺害された後、家督を継承して信玄に仕えた。
 諏訪衆の筆頭に名を連ね、使番十二衆として活躍し、今川氏侵攻戦でも戦功を挙げた。また、1578年の諏訪大社の再建には弟の大祝頼忠とともに中心に立って再建事業にあたった。頼豊はじめ多くの諏訪一族は勝頼から優遇されることはなかった。
 1582年、織田信長が武田領に攻め込む(武田征伐)と、諏訪氏家臣団は頼豊に対して武田氏を離反して諏訪氏再興を図るべきと進言するが、それを拒んで出陣する。鳥居峠の戦いで敗れた後、織田軍に捕らえられて処刑されたという。これにより、家臣達は弟の頼忠を擁して諏訪氏再興を図る。

 没年の部分だけを抜き書きすると、以下のようになります。確認しておきますが「満隣・頼豊」は「親・子」の関係です。

諏訪満隣─1582年、子の頼豊は戦死…(満隣も)同年没。
諏訪頼豊─1545年に父満隣もまた信玄に殺された。

 没年が「1545・1582」に分かれますが、これが私の言う「二系統」です。どちらかが間違っているのではなく、“歴史物によくある”文献による違いですが、その出処が併記していないので「確認」ができません。

 私の場合は、地元の「茅野市教育委員会」と「四百年忌碑建立の記発起人会」。さらに墓碑に刻まれた「天正十年」の「没年1582年」から入りました。そのため、「諏訪頼豊にある1545年没」に違和感を持ち、以上のような“事”を長々と書く羽目になってしまったということです。
 地元の資料として、諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書』の『諏訪家譜 其一』にある「満隣」を転載しました。「諏訪藩主忠林公が私用に作成した」「頼忠公以前は詳しくない…」とあるように「これだけ」しか書いてありません。

満隣(みつちか)新治郎 法名 竺渓中派
  法名 龍雲寺殿竺渓中派

 ここでは、「安国寺」ではなく「龍雲寺」になっています。さらに探したら、同書の『諏訪郡諸村並旧蹟年代記』に以下のようにありました。

一、安国寺村 (中略)
御位牌は龍雲寺にて給い上しと云う、真志野村 に龍雲寺殿竺渓中派大居士御位牌有り、

 「給(たま)い上(あげ)し」が理解できなかったのですが、これを、洪水で流された位牌を「拾い上し」とすれば意味が通ります。原典の誤字か製版時の間違いなのかは不明ですが、「安国寺の仁王が洪水で流されて諏訪湖の対岸で見つかった。拾い上げて千手堂に安置した」という話がありますから、「拾」が正解でしょうか。
 同書の「諏訪氏御代々御尊霊位」に、「諏訪湖の満水で流れたものを留めた」とあるので、裏付けができました。

龍雲寺殿竺渓中派大居士 此の如く龍雲寺に御法号之(これ)有り、一説に満水の節に御位牌流れしを留候等と浮説あれ共全左様の譯(わけ)には之無き、御茶祀免廿五石付之有り、

 一方、諏訪史談会『諏訪史蹟要項 茅野市宮川篇』には、「安国寺の位牌が古くなり箔等が落ちて汚れたので、新しい位牌に刻んで安置した」とあります。嘉永5年とあるので、廟所の造営時に位牌を一新したことがわかります。何かややこしくなってきましたが、「位牌の法名をあれこれ詮索するのは失礼に当たる」と、「それぞれの寺に、それぞれの寺名を入れた位牌がある」ということにしました。