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洩矢神社 岡谷市川岸橋原

高尾山から洩矢神社

 天竜川が諏訪湖から流れ始める河岸段丘上に、洩矢神社と藤島神社が鎮座しています。その付近には、県道14号(下諏訪辰野線)・JR(中央東線)・JH(中央自動車道)が集中しており、JRJHはいずれもジャンクションになっていますから、現在でも交通の要の地であることは間違いありません。

諏訪版国譲り 諏訪には、外来の勢力に先住民が抵抗した“国譲り”の話が幾つかあります。古いものでは中世に書かれた『大祝信重解状』や『諏方大明神画詞』があり、その舞台となった地が諏訪大社上社の周辺であることが推察できます。
 一方、「天竜川を挟んだ洩矢神社と藤島神社」を“その地”とする伝承が岡谷市にあります。文字と口伝えの違いはありますが、こちらにも「藤」にまつわる話が付加されているので気になります。今回は、天竜川畔に残る伝説の地を訪ねてみました。

いざ、洩矢神社へ 17.10.30

 県道から天竜川を渡って、左岸沿いの道を歩き続けます。仰ぐには首が痛くなるほどの高さですから、ジャンクションの高架下を「くぐる」という意識はありません。振り返るのを止めてからしばらくすると、左方に、道に接した鳥居が現れました。

 参道脇に『洩矢神社由緒略記』がありますが、少し引っ掛かる部分があります。「諏訪大明神画詞によれば」として〔藤島ノ明神〕の段を引用していますが、なぜか『画詞』には載っていない「川岸の地で」が加わっています。“そうしたい気持ち”は重々理解できますが…。
 社殿の周辺を除くと、全てマレットゴルフ場になっています。ヨソ者が村の鎮守の景観にケチをつけても始まりませんが、神をも畏(恐)れぬ環境にしてしまった(見えない)人達に、ついグチが出てしまいました。

洩矢神社拝殿 参道周りにやたらと多い金属製のパイプやアングルが気になります。しかし、安全面や利便性・耐久性を考えてのことですから、立ち寄り参拝者の身では合意するしかありません。
 それらが写らない場所を求めたら、この写真になりました。拝殿と本殿の覆屋です。

洩矢神社本殿 格子戸越しに本殿を撮ってみました。光線の具合でしょうか、その白さから、近年に新造されたもののように見えます。
 覆屋横のガラス窓から見た感じでは「春日造」ですが、正面からは屋根の造形が見えず特定できません。
 写真を撮り終えれば、「いざ藤島神社へ」という流れです。再び目にする格好になった五重塔に、「なぜここに設置した」という違和感を感じながら洩矢神社を後にしました。

洩矢神社について 29.3.12

 境内にある『洩矢神社由緒略記』を読むと、“我が田へ水を引く”記述が気になります。ここでは、諏訪史談会編『諏訪史蹟要項 岡谷市川岸篇』にある〔洩矢社〕を転載しました。

 橋原区垣外(がいと)鎮座。洩矢社は守矢大明神、又は洩矢大神とも称し、祭神は洩矢神で合殿に藤島明神を祀る。旧橋原村の産土神であり、明治五年十一月村社に列した。
 諏訪大明神絵詞(延文元年足利尊氏の奥書あり)諏訪祭四の条に「尊神垂迹の昔、洩矢の悪族神居をさまたげんとせし時、洩矢は鉄輪を持して争い、明神は藤の枝を取りて是を伏し給う云々」とあり、諏訪大明神御入国の際の伝説に本社の御祭神の事が出ておるが、神社の創立の年月は不詳である。
 恐らく明神御入国以前諏訪の豪族として住民崇敬対象となっていたもので、旧神長官守矢氏の始祖を祀ったものであろうといわれている。現在でも例祭日には守矢氏が参拝している。
 境内地壱千五拾五坪、例祭十月二十日。

 この中から、マーキングした文言について少し調べてみました。

「合殿に藤島明神を祀る」

 この表記に注目しましたが、他書に見えないので放置してきました。その後、明治34年に出版された渡辺市太郎編『信濃宝鑑』の〔洩矢神社の景〕に

祭神 洩矢神 相殿 藤島明神。本社は延喜式々外の部に記載せられたる神社にして…

を見つけました。これに押されて、明治11年とある長野県庶務課『諏訪郡村誌(草稿本)』の〔川岸村〕を開くと、以下のように書いていました。

洩矢社
村社橋原の産神にして…村の東方にあり、藤島明神 洩矢神 御子神御相殿 守宅神、

 極めつけは、洩矢神社の拝殿に懸かる「明治維新百年祭・昭和四十三年十月」とある『洩矢神社由緒』です。

一、祭神
洩矢神
藤島神

一、由緒
創立年月不詳 国史所見の神社にして舊橋原村の…

 参道脇の『洩矢神社由緒略記』では「藤島神」が抜けているので、“洩矢神(氏子)の強い意向”が働いているとも思ってしまいます。
 このように、知る人には「何を今さら」とお叱りを受けそうですが、洩矢神社が洩矢神と藤島神の二柱を祀っていることを、不覚にも平成29年になって知ることになりました。

「神社の創立の年月は不詳」

 諏訪には、神々を勧請する祝詞を文字化した『祝詞段』があります。諏訪大社上社の周辺にある神社(武居鎮守・藤島明神・若宮サンソン・武居蛭子・守矢大神…)から始まり、有賀・小坂・花岡の各神社を挙げ、天竜川の左岸では「駒沢鎮守白波の大明神」で終わっています。
 『祝詞段』には嘉禎(1237)の奥書があるので、そこに名があれば、中世には存在していた一つの証明となります。ところが、橋原村を素通りしています。親郷である小坂村の影響力が強く、橋原村の鎮守社であっても、小規模であったのかもしれません。

「神長官守矢氏の始祖を祀った」

 洩矢神の後裔が守矢氏ということになります。その一方で、幕末に書かれた『諏訪郡諸村並旧蹟年代記』(以下『年代記』)の〔橋原村〕に、以下の記述があります。

此の村之人善光寺へ参詣成らずと云う、
諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書』
洩矢神社の神紋
洩矢神社

 橋原村民は、神長官の祖を「物部守屋」とも考えていたようで、“神仏戦争”の敵方である善光寺には参拝しないと伝えています。また、洩矢神社の神紋は「丸に一つ柏」ですから、「丸に三つ柏」を神紋にしている伊那市高遠町鎮座の「物部守屋神社」と繋げてみたくなります。

物部守屋神社の神紋
物部守屋神社

 というのも、諏訪大社の分社の多くが「立穀(梶の一枚葉)」を採用していますから、「本社−三つ葉・分社−一枚葉」の関係がそのまま当てはまるからです。ただ、たまたま“そうだった”とも言えますから、両社の距離が近くなったわけではありません。

 一方で、前出の『洩矢神社由緒』には、〔神社神徳〕として

神威は極めて顕著で、苟(いやしく)境内に不浄の事が阿れば須ち(忽ち?)暴風雨を捲起して目のあたりに其霊威をお示しになる、

と、守屋山にある「物部守屋神社奥宮」と同じ霊威を書いているので、洩矢神の中に物部守屋を見ていることは否定できません。

「例祭日には守矢氏が参拝」

 前後しましたが、〔橋原村〕の前半部分です。

守屋大明神、神領壱石、社地に池有り、古くは女人社地に入時は惣(そうじて)水赤く成るという、御柱の後神長官参詣これ有り、御柱は上社弐の朝立てる、

 守矢家に伝わる古文書『守矢文書』には洩矢神社関連のものは一切ありませんから、守矢早苗著『祖父真幸の日記に見る神長家の神事祭祀』から関係する部分のみを転載しました。

大正十五年 五・十三 川岸村橋原洩矢神社御柱祭及び例祭執行、招待受けて参拝す。

昭和三年 十・二十 川岸村橋原区鎮座守矢家遠祖洩矢神社例祭を午前九時執行の旨通知ありしを以て参拝す。

昭和二十年 十・二十 例年の如く洩矢社例祭に付参拝。

 大正から昭和(終戦)まで、守矢家の当主が、洩矢神社の御柱祭と例祭に「招待を受けて参拝した」と書いています。

洩矢神社の本殿 29.3.12

洩矢神社本殿
長野県『信州デジ蔵』

 前出の「明治三十三年十一月一日刻」とある銅版画〔洩矢神社の景〕の一部を転載しました。
 かなり大きな社殿に見えますが、『諏訪史蹟要項』では、明治6年の書上として「竪(縦)七尺・巾六尺」と書いています。現在と同じ一間社でしょう。
 昭和32年と昭和61年の写真では、本殿は拝殿に隠れて見えません。しかし、版画と同じ玉垣(木柵)が拝殿の側方にあるので、まだ明治の頃と同じ景観とわかります。また、『岡谷歴史散歩』では「造営時期は不明」とし、老巧化した本殿の写真を載せています。これらから、昭和61年以降にすべての社殿が一新されて、現在の景観になったことがわかります。

洩矢神社と藤島神社の藤が絡み合った!? 29.3.22

 あり得ない“話”ですが、多くの書が取り上げています。ここでは、『年代記』の〔橋原村〕から、その一部を転載しました。

 弘化二(1845)初めて天竜川へ長さ三十二間橋架かる、同宮(洩矢神社)三澤村荒神社森ふじ相向かいからみ合い川中へ懸かり洪水の節落水の障に相成る、上筋にて願い上げ、御上様にして切り払い候所、御殿様御病気の節神の御口開き右の事に障(さわ)るとの譯(わけ)に付年々一石宛て下さる。

 三十二間(57m)の橋が架かる川幅です。また、川中へ延びる枝は、増水時には氾濫を助長するとして切り払われましたから、やはり荒唐無稽な「むかしむかし…」と同じ話であると言えます。

 “それ”を可能にできるのが、前出の「洩矢神社の祭神は洩矢神と藤島神」です。私が設定したのは「橋原村には、洩矢神社と藤島神社が用水路を挟んで並んでいた」という景観です。これなら、両社の藤が絡み合って昼なお暗かったという話も頷けます。

洩矢神社 また、神社の移転も、度重なる天竜川の氾濫で高台の現在地へ遷座させ、それを機会に両祭神を相殿の形で祀ったと考えることができます。
 また、天竜川を挟んだ洩矢神社と藤島社の確執も、左岸が神氏・右岸が金刺氏の所領でしたから、上社と下社の対立が元になった話とすることもできます。話としてはつまらなくなりますが、これが“現実”というものでしょう。

 碑文に「古代より南信濃路に威勢を以て君臨した洩矢大神の住居跡を祀る古社にして…」とある〔洩矢大神御舊趾〕は、以下のリンクで御覧ください。


‖サイト内リンク‖ 〔改訂 洩矢大神御舊趾〕