諏訪大社と諏訪神社トップ / 諏訪の神社メニュー /

洩矢大神御舊趾 岡谷市川岸橋原

洩矢大神御舊趾碑 20.4.1

 諏訪では、まだ冬とも言えそうな昨日の雪でした。その名残が、こぼしたように点々と道端に残っています。風の強さに喉元までジッパーを上げ、気になっていた洩矢大神御舊趾碑を探しに出掛けました。

 「洩矢神社の斜め後方」としか情報がないので、取りあえず神社の裏から目を光らせながら山手へ向かいます。情報源の諏訪史談会『諏訪史蹟要項 岡谷市川岸篇』の〔旧川岸村略図〕では、発刊後に開通した中央自動車道が重なり、すでに移転かという際どい場所です。
 トンネルをくぐると、碑のことはさておいて、ひとまず側道を川岸方面に進むことにしました。高速道路を挟んだこの辺りは、強制撤去(収用)された神社や祠が「遷座記念」碑を従えて数多くあるからです。

「洩矢大神御舊趾」
遷座記念碑space洩矢大神御舊趾碑

 下り坂の最鞍部に、枯れ色に埋もれた塚らしいものが見えます。近づくと、玉垣で囲われた洩矢大神御舊趾でした。ここにも同じ規格の遷座記念碑があるので、洩矢大神御舊趾碑も“遷座”させられたことを知りました。

遷座記念
 當洩矢大神の事。古代より南信濃路に威勢を以て君臨した洩矢大神の住居跡を祀る古社にして橋原区の守護神也。古来の諏訪大社と最も深き由緒を保ち、敬神の念厚き歴世の父祖、天堂の至誠を捧げて今日に及ぶ。然れば中央道西宮線橋原区を縦貫すると云う時代の変遷に伴い、北西百米の社地から移転を余儀なくせられる。依って崇祖の心深き区民集いて新社地をこの地と定め、心魂を傾注して移転造営したるも、尚神徳を敬仰し神魂を安らかしめ、往古を偲ぶよすがとする。ここに碑石を建立し、以て之が御旧趾として後世に傳う。
 昭和五十三年戌午年十月

洩矢大神御舊趾碑 これを読むと、「碑は、北西百米の社地から移転」とあります。しかし、その方角・距離は高速道路(中央道)の向こう側になりますから、工事によって移転する理由がありません。碑文の間違いとも思えないので、新たな疑問が生まれました。
 帰り際に、碑の傍らから枝を伸ばした木が桜であるのに気が付きました。その太さと「昭和53年」から、30年前の遷座時に植えたものと推測できました。

 碑の背面には、社地の提供者と石碑の寄進者の連名があるだけで建立年がありません。仕方なく碑銘を揮毫した「神朝臣實顕」を調べると、75代神長官「守矢實顕」でした。生年が文化8年(1825)であることから、明治の始め頃に建立したと考えました。

洩矢神社古宮跡 23.8.8

守矢神社古宮跡 諏訪史談会編『復刻諏訪藩主手元絵図』から、〔橋原村〕の一部です。享保18年(1733)当時の様子になりますが、天竜川の岸辺に「古宮跡」と書いてあることに気がつきました。近辺には「守矢大明神(洩矢神社)」しかありませんから、「洩矢神社は、天竜川の岸辺から現在の場所に移った()」とある伝承が頷けます。
 この古宮跡を記念したのが洩矢大神御舊趾碑と考えると、遷座記念碑の「北西百米の社地から移転」が当てはまりません。この辺りは、中央東線の二度による線路工事で大きく変わっていますから、何度かの移転の後に、現在地に落ち着いたと考えました。

洩矢大神御舊趾は、洩矢大神の住居跡 29.3.7

 ここでは、洩矢大神御舊趾を「洩矢大神旧趾」・洩矢神社を「洩矢社」・藤島神社を「荒神塚」と表記しています。

「洩矢大神旧趾」 前出の昭和32年当時となる〔旧川岸村略図〕を、地図と同じ方位に回転させてみました。
 これを眺めると、荒神塚に対し、洩矢大神旧趾洩矢社より更に離れた場所にあります。この位置関係から、洩矢大神御舊趾は、洩矢神社の古宮跡とは別物であるこに気が付きました。
 改めて碑文を読み直すと、「洩矢大神の住居跡を祀る古社」とあります。「跡に神社があったのか」と意味不明な文言に悩みますが、「住居跡=洩矢大神旧趾」として、それが洩矢大神御舊趾と確定しました。

「北西百米の社地から移転」

 『GoogleMap』は、登録をする人がいるのか、今や「洩矢大神御舊趾碑」を表示します。さらに、ストリートビューでその脇を走ることもできます。

 その『Map』に[北西百米()]を設定すると、現地では「中央道の向こう側」と大ざっぱでしたが、それからさらに離れた場所であることがわかります。
 こうなると、土地収用に掛からないので、「なぜ移転したのか」という疑問が再浮上します。「何かヒントが」と、中央自動車道工事中の航空写真をダウンロードしてみました。

「洩矢大神御舊趾」
国土交通省『国土画像情報』(昭和55年)

 しかし、空から眺めても、「北西百米」の地が普通の田畑の中にあることは変わりません。
 結局、すでに39年も経過しているので、遷座記念の碑文には首を傾げるものの、これ以上追求するのは意味がないとしました。

 それにしても、“洩矢大神が住んでいた場所”を、どのようにして見つけたのかという別の疑問(疑惑)が…。『諏訪藩主手元絵図』では、「経塚原」と書かれた場所に相当しますが…。

「洩矢ノ舊蹟」 29.3.29

 鳥居龍蔵著『諏訪史 第一巻』の図録に〔川岸村遺跡地全景〕を見つけ、右半分をトリミングしたものを転載しました。

洩矢ノ舊蹟

 右端に、「洩矢ノ舊蹟・アイヌ式遺蹟地」とあります。今となってはその二つが一体のものかは確認できませんが、左の小山に注記したものと考えれば、「洩矢ノ舊蹟」が「洩矢大神御舊趾」と重なります。

航空写真「洩矢大神御舊趾」
国土交通省『国土画像情報』(昭和23年)

 実は、昭和23年の航空写真を眺めていて、畑の中にここだけという木々の塊()に注目していました。それが「洩矢ノ舊蹟」の小山と重なったので、「これが洩矢大神御舊趾だ!」と、この写真を用意しました。
 しかし、石に刻まれた不動の碑文「北西百米()」を無視できず、「高速道路に掛からないのに、なぜ移転」の疑問を残したまま棚上げとになりました。

洩矢大神御舊趾は、縄文時代の祭祀跡!? 29.4.1

 その後、別件で「川岸 経塚原」を検索する中で、再び洩矢神の招きにあいて深入りすることに…。

記念碑「洩矢大神御舊趾」
図1 経塚遺跡付近の地形と調査区・遺構

 ダウンロードした『経塚(経塚原)遺跡』を読むと、図にある「記念碑」が洩矢大神御舊趾碑で、それが標高788m・道から15mというピンポイントにあることがわかりました。そのことから、〔川岸村遺跡地全景〕から内定していた「洩矢ノ舊蹟」は小山ではなく、あくまで「洩矢ノ舊蹟」の下部にある場所と確定しました。

 ここで浮上したのが、4群が確認された「集石群」です。調査書では“(地質学専門家が教示した)自然集石とするのは忍びがたい”としていますが、私も同感で、(洩矢大神とは言いませんが)先住人の祭祀跡とすれば、俄然盛り上がります。

『長野県中央道埋蔵文化財包蔵地発掘調査報告書-岡谷市その4
-昭和52・53年度』日本道路公団名古屋建設局・長野県教育委員会

 ここまでくれば、調査書ではまったく触れていませんが、明治という古い時代に橋原の人々が洩矢大神御舊趾碑を建立した根拠・大正時代の研究者が「洩矢ノ舊蹟」として『諏訪史』に載せた理由が気になります。

 以下に「集石群」の概説を転載しました。報告書特有のセンテンスの長さに悩まされますが、御覧ください。

 今回の調査では、住居址、土拡等は未検出に終った。しかし、以下の「集石」群については、調査中は勿論調査後の整理段階の検討でも、「遺構」として位置づけるか否か決定し得なかったが、一応、集石自体は自然堆積と結論づけるが、「集石」群中に焼土が存在すること、遺物、とくに土器の出土が多いごとの二点を考慮し、純然たる「遺構」ではないが、今後同種遺構の研究のためにも、やや詳しく調査経過や結果を報告することにした。名称はまぎらわしいが「集石」群とした。

「洩矢大神の住居跡を祀る古社」 29.4.5

 天竜川の対岸から〔川岸村遺跡地全景〕に近い景観を撮り、洩矢神社と「洩矢ノ舊蹟」を標記しました。

洩矢大神御舊趾
真福寺上の山際から遠望(31.1.7)

 以下は、「洩矢ノ舊蹟」周辺を拡大したものです。

洩矢大神御舊趾
御嶽神社付近から 31.1.7

 改めて前出の[調査区・遺構図]を眺めると、現在は家が建っているテラス状段丘の縁に記念碑(洩矢大神御舊趾碑)があったことになります。その場所に、「旧御舊趾碑推定地」を書き入れてみました。

 この景観に碑文を重ねると、段丘が「洩矢大神の住居跡」となります。また、発掘記録調査書を参考にすると「集石群は洩矢大神を祀った跡」と考えることができます。

 ここで「洩矢大神御舊趾碑は、土地収用から外れているのに移転した」という謎が相変わらず残りますが、用地買収に伴う橋原区への補償の中で移転整備したと考えました。

 結局は、「洩矢大神の住居跡を祀る古社・北西百米の社地」とある碑文の非合理性に振り回されたのが私ということになりました。素直に「洩矢大神の住居跡を祀る古社記念する碑にして・北西五十米のから」とすべきだったと声を挙げても、当時の関係者は黙して語ることができない人になっているでしょうか。もっとも、当時は、洩矢神社がこれほどまで注目される時代が来ようとは夢にも思っていなかったに違いありません。

 洩矢神社の古宮跡は、以下のリンクで御覧ください。


‖サイト内リンク‖ 〔洩矢大神「古宮跡」探訪記〕