諏訪大社と諏訪神社トップ / 上社散歩道メニュー /

習焼神社・習焼大明神 諏訪市真志野(まじの) 18.4.22

 通勤時には必ずこの前を通るのですが、「習焼」を読めずにいました。「しゅうしょう」とか音訓混じりで「しゅうやき」という程度でしたから、気にも留めなかった神社でした。ある日、この神社の前にTV局の中継車が駐まっているのを見て、わざわざ取材に来るのなら、と調べてみました。
 その結果、「習焼」を「ならやき(のやき)」と読む、諏訪大社の重要な「独立せる摂末社」であることを知りました。また、「古来は野明や野焼と呼ばれたが、なぜ習焼になったのかの定説はない」とありました。

 『諏方大明神画詞』に「野焼ノ社」が見られます。

辰日、(禰宜送り神事の後)神使六人、庭上にして宇壺(うつぼ)(※靫)を左に付けて着座、神官等同座、三献の後打立ちて野焼に趣く、大祝・神官の外氏人水干本人数を率して、大宮(※本宮)の前をへて北の鳥居の外一妙(いちひょう)山の鼻より、野火を放ちて野焼ノ社に至る、御子村(みこむら※着飾った巫女のパレード)・小笠懸あり、行縢(むかばき)の上に征矢を付く、射礼畢(終わ)りて、馬上にして三献、盃を右に取って左に落とす、鹿の折骨下宮所役を以て肴とす、帰路万歳をうたう、次に、馬を駆けて時(鬨)のこえをあ(挙)ぐ、戦場得利の礼を表するおや、
諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書 第一巻』

習焼神社例祭

習焼神社
「習焼神社例祭」右の社殿は合祀殿

 今年は土曜日と重なったので、初めて習焼神社の例祭に出かけました。神事前の人影もまばらな時間帯を利用して拝殿内をのぞくと、桟唐戸が開かれているので本殿の正面が見えます。この機を逃しては、とカメラを向けると、掲額が「野明大明神」であるのに気が付きました。
 神事が始まると、社務所から合祀殿前の回廊を通って、女性一人を含む神職と氏子総代が拝殿に着座しました。左側が習焼神社の神職と氏子総代で、右側が諏訪大社から参向した神職と御頭郷総代です。諏訪大社の平林宮司はあくまで招待客という立場なのでしょうか、今日は羽織袴でした。

習焼神社例祭
「草餅の献饌」奥が本殿

 献撰は氏子数人の手渡しで行われます。アンカーは習焼神社の宮司です。習焼神社の例祭が別名「草餅祭り」とあるように、三升三合の草丸餅が神饌に加わります。各種果物の三方ですが、一番上のメロンが転び落ちないかと見物人ながらヒヤヒヤしましたが、(その点は対策済みなのか)無事、全ての神饌が本殿前の神饌案(お供えを載せる台)に並べられました。

 祭主は習焼神社の宮司です。諏訪大社は「参向」という“形”なので、持参の注連が張られた唐櫃(からひつ)から取り出した幣帛(へいはく)と幣帛料を載せた三方が供えられました。きらびやかに正装した「下諏訪町東山田長持保存会雅楽部」の三人が、笙(しょう)・篳篥(ひちりき)・龍笛(りゅうてき)の床しいBGMで神事を盛り立てています。

 今日、習焼神社の神事を見学していたのは、「お久しぶりです」とここで偶然に会った知人と私の二人だけです。そのため、これだけの社殿と例大祭に応えていない地元氏子の対応に冷たさを感じていました。それとは関係ありませんが、吹きさらしの日陰の境内では桜は咲いていますが、花冷えならぬ空腹に伴う腹冷えにフリースのジャケットを着てきてよかったと、自身も寒さを感じていました。

 全てが終わり、全員が社務所に引き揚げました。直会が始まったようです。実は、「草モチのお裾分け」が頂けるのではないかと(かなり)期待して(ねばって)いました。しかし、声が掛かることはなく、完全に無視されました。

習焼神社の薙鎌

習焼神社「薙鎌」
「薙鎌」画像クリックで拡大ページへ

 社殿前に飾られていたのは播(旗)と弓・鎌でした。播の一つには、最上部に銅鏡と(光沢がありすぎて模造品に見える)勾玉・管玉などの飾りが見えます。
 元治元年(1864)とある鎌(左の写真)は、背に刻みがあります。薙鎌のルーツでしょうか。または、本社に遠慮して「草を薙ぐ」本来の形にしたのでしょうか。神事自体は特に目新しいものがなかったので、この鎌を見られたのは収穫ものでした。

 この後で行われるはずの流鏑社例祭ですが、何と、すでに午前中に終了していました。実は、こちらの方を期待していたのですが…。この神事は、播や鎌・鏡を持った行列が習焼神社摂社「流鏑馬社」へ向かい、神職が矢を射るというものです。地元にとってはこちらの方がメインらしく、本社である習焼神社の神事時に誰もいなかった理由が分かりました。
 習焼神社の拝殿大棟の神紋は根が五本の明神梶ですが、桟唐戸は四本の諏訪梶でした。本殿と拝殿の定紋幕は諏訪梶で、ここにも神紋の混在がありました。

拝殿の掲額 20.3.22

千家尊弘

 習焼神社の駐車場を拝借したので、(ついでに)境内を一回りしました。拝殿の掲額を仰ぐと「大社教菅長 千家尊弘敬書」とあります。始めは、「大社」とあったので諏訪大社の宮司と思いました。しかし、記憶の中には「千家」はなく、再び読み直すと「菅長」です。ここでようやく気が付きました。出雲大社の二大社家の一つ「千家(せんげ)」でした。ただし、この場では、「習焼神社と出雲大社の菅長」との結びつきはわかりませんでした。

 自宅で「千家尊弘」をWeb検索しましたが、氏の詳細は得られません。「昭和15年千家尊弘帰幽」から、大正の終わりか昭和の初め頃に氏が揮毫したものとしました。

下馬橋 28.7.22

習焼神社「下馬橋」 習焼神社神社の背後から二つ上にある道が旧道で、写真の野明沢に架かっているのが「下馬橋」です。
 石垣下の道脇には大石が二つ並び、右側は「下馬◯」と読めます。「馬」は、馬のくずし字とわかりましたが、「◯」が「はし・橋」のどちらなのかは確認できませんでした。

源太夫屋敷跡

源太夫屋敷跡 鳥居の中に黒門を入れたくて、石段からのけぞるように撮ったのがこの写真です。このように、一之鳥居の正面に位置する石橋とその先にある門ですから、習焼神社ゆかりの屋敷跡と思っていました。しかし、案内板がないので、「何だろう」で済ましていました。
 その後、『習焼神社周辺マップ』を見ると、対応するのは「源太夫屋敷跡」です。源太夫は、中世の文献に出る「真弓湛(野焼)神主(こうぬし)」に繋がる習焼神社の神主です。
 この敷地は日東光学の駐車場ですが、今日は休日で車がなかったので、門を直近で眺めてみました。門の裏には、曰くがありそうな大石やサークル状に置かれた石がありますが、草に埋もれているので「何なのか」はわかりませんでした。


‖サイト内リンク‖ 「習焼神社摂社・流鏑馬社例祭」