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祢宜太夫(祢宜太夫邸跡) 茅野市高部・神宮寺 20.4.14

高部にいた祢宜太夫  祢宜太夫(ねぎだゆう)は、諏訪神社上社の「五官」の一つです。代々小出氏が務めてきましたが、神長官と争って高遠氏と組んだため、武田信玄に攻められて滅びました。

祢宜太夫 上原城から眺めた祢宜太夫邸跡の推定地です。中世の頃は、茅野市「高部」の乞食塚古墳の東側にあったとされています。
 高部歴史編纂委員会『高部の文化財』には、下馬橋から小袋石へ向かう道脇の畑を「ほぼ間違いないものと思われる」と書いてあります。「ほぼ・思われる」で挟んだ“守りの表現”ですが、この地で生まれて育った研究者の言葉には重みがあります。この辺りには、擬祝や副祝も屋敷を構えていました。

古絵図に見る祢宜太夫邸

 神長官守矢満実の孫「守矢神平」は、小出氏が滅んだために神長官が兼務していた祢宜太夫職を、分家「守屋」を興して継ぎました。また、名付け親になった武田信玄から「信」の一字を賜り「守屋信実(のぶざね)」と名乗りました。この時には高部の祢宜太夫邸は焼失していたのでしょう。この守屋信実が、現在の神宮寺区長沢の地に移って屋敷を構えたとされています。

祢宜太夫 諏訪史談会編『復刻諏訪藩主手元絵図』から、江戸時代の〔神宮寺村〕の一部です。上が南(南北が逆)になっているので注意してください。
 「守矢采女(うねめ)」とあるのが、祢宜太夫邸です。因みに、左に「矢嶋宮内(くない)」と書いてあるのが権祝邸です。「石井清水」は、(ポンプアップですが)現在も“元気よく”蛇口からとうとうと流れ出ています。

祢宜太夫邸跡

 北斗神社から見下ろした写真です。上部の道は、最近開通したバイパスなので無かったことにしてください。

祢宜太夫 現在は民家が建ち並んでいますが、上半分の中央辺り(のどこか)が祢宜太夫邸跡だとされています。
 話は変わりますが、北斗神社にある灯籠には「物部安貞」と刻まれています。物部安貞は祢宜太夫「守屋安貞」本人ですから、北斗神社を守護(屋敷)神と考えれば、下に見える鳥居(参道)の延長線上に屋敷の核心部・母屋があった可能性があります。たまたま顔を出した近隣の家人に聞いてみましたが、「家が建っているのでわからない」という答えでした。

神長官 守矢信実

 神長官守矢資料館で「十角重箱」を見られた方もいるかと思いますが、「天文十四年十二月十三日、武田信玄公より神長信実がこれを賜う」と書かれているそうです。これにあるように、後に神長官に就いたので「守矢信実」のほうが知られているかもしれません。何しろ、本家(神長官)が「守矢」で分家(祢宜太夫)が「守屋」なので、書き分けが面倒です。「共通」にしても誰も気がつかないと思いますが…。