諏訪大社と諏訪神社トップ / 上社散歩道メニュー /

織田信長と明智光秀と法華寺

 本能寺の変が勃発したのは、偏執狂としか思えない織田信長の明智光秀に対する仕打ちが下地にあったと言われています。その双方の堪忍袋の緒が切れた場所が諏訪大社本宮の隣にある法華寺であったとは、つい最近まで知りませんでした。

織田信長と明智光秀因縁の法華寺
28.4.14

 法華寺は諏訪神社上社神宮寺の一坊だったので、本堂と山門の大棟に諏訪大社の神紋「諏訪梶」があります。

織田信長と法華寺 15.5.24

 武田家が諏訪明神を篤く信仰していたため、織田信長の嫡男信忠は、諏訪神社上社の全てを焼き払いました。
 その後に、陣所とした法華寺に乗り込んだ織田信長ですが、目と鼻の先に広がる灰じんと化した上社をどのように見たのでしょうか。焼けこげた御柱を見ても、見馴れてきた風景の一つとしか映らなかったのかも知れません。
 二ヶ月後、京都にいた織田信長は本能寺で自害しました。諏訪明神の神罰と、織田信長に否応なく関わさられて殺された人々の、一人では取るに足らない怨念が結束して明智光秀公の背中を押したとしか考えられません。

 上社本宮の四脚門は、徳川家康の寄進によって造営したとあります。26年前、光秀公が辱めを受けた場に同席していた彼は、自分が天下を取った今、どのような思いで四脚門完成の報告を受けたのでしょうか。

明智光秀公と屋敷跡

明智光秀公縁(ゆかり)の祠 20.4.10

 高部歴史編纂委員会『続・高部の文化財』には、「石祠に明智の紋があり、正月に金属の御幣が上がる。縁のある人がお参りする。畑の地主藤森某の話」とあります。これが大いに気になり落ち着きません。

伝「明智光秀公石祠」 2月5日。取りあえず写真だけでも、と雪を押して茅野市の高部へ向かいました。西沢川に沿った大祝(おうほうり)の御廟を左に見て少し上ると、道から一段高い土手上に石の祠が見えます。身舎(もや)と基台が代替の自然石なので、チョコン、という感じです。これが何と、明智光秀公縁の祠でした。

 早速、切妻部にある紋を見ると、やや赤く見えます。朱がわずかに残っているようです。ところが、摩滅と苔で「丸に五弁の何か」としか見えません。苔を取り除いて拓本を採れば「桔梗」と確認できそうですが、桔梗紋は一般にも使われていますから、即「明智光秀公縁の祠」とは言えません。入母屋造(いりもやづくり)から推すと、諏訪では籃塔(らんとう)と呼ぶ先祖供養塔のようにも見えます。

明智光秀公の桔梗紋 4月4日、すっかり雪が消えた伝・明智光秀公の祠へ寄ってみました。真っ先に紋を注視すると、影が出て立体感を増しています。「これなら」と思いましたが、自宅で確認した主観の入らない写真では「これが“明智家の紋”だ」とは言えません。
 結局、「ここまで」としました。これ以上「諏訪の明智光秀」を追っても、その結末は「なーんだ」になりかねません。諏訪に滞在した明智光秀公の落胤が…、と想像するのも楽しいのですが。

明智光秀公陣場屋敷 27.10.7

 茅野市の塚原に、模擬合戦(訓練)で明智光秀公が陣を張ったという場所が伝えられています。この戦に勝った明智光秀公ですが、これも(負けた)織田信長の心証を悪くしたそうです。

 『諏訪郡諸村旧蹟年代記』から転載しました。

一、塚原村
立石北の方沢に明智光秀公陣場屋敷と云、今其辺裏道通(智)屋敷跡拾八軒

諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書 第三巻』

 1730年代に編纂された『諏訪藩主手元絵図』から〔塚原村〕です。

明智屋敷畑
諏訪史談会編『諏訪藩主手元絵図』(部分)

 『年代記』では「立石の北」ですが、『手元絵図』では、「立石」の西方に「明地屋敷畑」がありました。字が違いますが、諏訪では塚原村以外に「明地」が見られないので、江戸時代では畑となった「明智光秀公陣場屋敷」として当てはめてみました。現在では、永明寺山墓地の入口辺りでしょうか。

明智家老屋敷 ところが、塚原村には、大年ノ宮(大年神社)の周辺にも×××  で囲んだ「畑」が二ヶ所あり、「明地家老やし記(屋敷)」と書いてあります。
 明智光秀公が屋敷を構えるほど滞在したとは思えませんから、大家を接収して、家臣共々に一時の休息をとったのでしょうか。
 ここで、「明智光秀公のみが、彼にまつわる地名を残しているのが不思議」という考えが浮かびました。それは、模擬合戦に勝った総大将としてより、諏訪神社上社を焼き払った信長を討った本人ということで、彼が滞在した塚原村で人気が出たと説明できます。今は平成の世ですが、私がこれまで明智光秀に“公”と敬称を付けてきたのは、同じ理由です。
 この場所は茅野駅の近くです。他の武将も法華寺の近隣ばかりでなく、広く諏訪市や茅野市内に別れて滞在場所を構えたことがわかります。