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女帝塚(女躰塚)と十二ノ后遺跡 諏訪市豊田有賀 23.12.23

女帝塚
28.7.5

 ブランコなどの遊具がある広場の端から始まる斜面には祠が並び、ここが諏訪である証の「御柱」も建っています。私にはワクワクするような“怪しげ”な場所に映りました。

女帝塚 右端に、無住と思われる民家の敷地に接して玉垣があります。覗き込んでから大きな平石とわかりましたが、案内板やそれに代わる文字を表示したものがまったくありません。磐座のようですが、手前に大石が数個まとめて置かれていますから、私には古墳の蓋石に見えます。これが、女帝塚でした。

女帝塚(女躰塚)

 収集した資料から幾つかを抜粋して掲載しました。

【女帝垣外(にょていがいと)遺跡】 女帝垣外遺跡の位置は有賀峠口の南側にあたる。中沢川をはさんでいるが、十二ノ后(じゅうにのき)遺跡と関係をもつ遺跡とみられる。現集落内には女帝塚遺跡があり、ここにある巨石を古墳とも伝えるが不明確である。女帝塚は、奈良時代の女帝さまの墓などと伝承されている。また、十二ノ后はこの女帝の十二人の皇后が住んでいた所との伝承がある。そして、女帝塚には御頭御社宮司社があり、諏訪神社上社の御頭祭のさい精進屋を作った場所である。
諏訪市史編纂委員会『諏訪市史上巻』
【女帝塚遺跡(女躰塚遺跡)】 巨大な平板石が露出し、女帝塚と呼ばれている。古墳とも考えられるが不明。
諏訪市教育委員会『諏訪市の遺跡』

 女帝の別称「女躰」は「女体」ですから、つい良からぬことを連想してしまいます。古文献でも「女躰・にょうたえ」ですから、男としては「にょたい→裸」と妄想が膨らみ、何か猟奇的な伝承を期待してしまいます。
 「前方後円墳」の一般的な名称は「二子塚・茶臼塚」が多いのですが、有賀の人々は「腰のくびれ」を連想したのでしょうか。しかし、諏訪では前方後円墳は極めて稀なので、石室の蓋石としても円墳しか考えられません。そのため、どうしても「“にょたい”に関わる何か」の存在が頭から離れません。山の向こうの駒ヶ根市には「女体入口」というバス停があり、全国的にも「女体山・女体神社」があるので、そこまで意識するのは“異常”かもしれません…。

 以下から、諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書』からの転載になります。

有賀之郷に ニウリニウタイ・チカト(千鹿頭社)・若宮・小式原渡リ御社宮神、
『祝詞段』

 嘉禎3年(1237)に編纂された文書では「ニウリニウタイ」とあります。「ニウタイ」は女躰とわかりましたが、「ニウリ」が意味不明でした。これは、『豊田村誌 上巻』の〔有賀氏の活躍〕に、(疑問符付きですが)「女裡(女性の住む家ヵ)」とありました。

一、有賀村
十二木(※十二ノ后)と云う所有、寺(※江音寺)裏也、女躰宮と云、是は往昔大内十二后流れ来り居住之所哉、又御尊體を葬奉る所也、石二つ有、二タ子石と云、此所え御頭屋立、産神祭毎年八月三日、…

著者不明『諏訪郡諸村並旧蹟年代記』

 江戸時代末期の文書ですが、「十二后が流されてきた」と書いています。

 有賀郷ににょうたえと唱る森あり、その森の中に石の蓋をなしし墓の状なる所あり、里人等是をにょうたえ様と唱う、且(かつ)にようたえとは女體という事にて古京より来ましし貴き婦人を此に葬奉れりなという、按う(思う?)ににょうたえとは女體という事にあらず、上古荒衣和衣(あらたえ・にぎたえ)なといえる和衣の事にて、
(中略) 
 此はこの郷に御射宮司七社ある其内の一所なれば大御神の御裔の貴人を葬奉れりにて京の婦人にはあるべからず、且和衣という地名を按うに此地はもし上古機殿(はたどの※布を織る所)のありし所にはあらざるか、後人もし其証をうる事あらば此を明にしたまえかし、
松澤義章著『顯幽本記』「春の部」

 文中に「流れ来り・来ましし」という表現がありますが、なぜ高貴な婦人がここに来たのか不思議に思っていました。その後、「流」は「流罪」であり、延喜式では、諏方(諏訪)が「中流(ちゅうる)」の地であることを知りました。後書では「証拠が見つかったら明らかにしてくれ」と結んでいますが、未だに…。

十二ノ后遺跡

 中央道の側道にある案内板から転載しました。

 約六千年前の縄文時代前期から古代・中世にかけての集落遺跡。発掘調査により、縄文前期の住居跡や方形柱穴列と呼ばれる複数の柱を建てたと見られる遺構が発見されている。
 奈良・平安時代には、諏訪と伊那谷を結ぶ重要な交通路である有賀峠の入口に位置することから、当地域の中心的な集落として周辺の千鹿頭社遺跡・女帝垣外遺跡・鐘鋳場遺跡等と共に大きく発達した。十二ノ后という地名は、大和朝廷の頃、大和の国から移ってきた女帝のお供だった十二人の姫女が居を定めた場所という女躰社の伝説にちなんだものである。
十二ノ后遺跡
案内板附近から撮った「十二ノ后遺跡」

 奥の急坂が、谷の間を有賀峠に向かう県道50号です。中世の頃は、春の廻湛で神使が伊那へ向かった道です。

十二ノ后遺跡
江音寺横の旧道付近から見下ろした「十二ノ后遺跡」

 ここに12人の女官が住んでいたと想像してみましたが、中央自動車道の防音壁の存在が大きすぎて…。当時は、下方の人家が途切れる辺りまで諏訪湖の波が立っていたのかもしれません。

 遺跡地の立地がわかるので、このサイズで載せました。左奥が諏訪湖で、山並みの中央に少し見えるのが霧ヶ峰・右端が蓼科山です。因みに、左方の白い建物群の辺りが豊田終末処理場です。焼却灰に金の含有量が多いことで知られ、昨年は「灰」が2千万円で売却されました。海外からも取材に来たという「新(珍)諏訪八景」ですが、今年度は放射能の“含有量”が多いことがわかって値切られ、6百万円で落札されたそうです。この場合は東電に損害賠償ができるのでしょうか。処理料を負担している身では気になります。