諏訪大社と諏訪神社トップ / 上社散歩道メニュー /

南方御社宮司神社・北方御社宮司社 諏訪市湖南 21.3.28

 長野県神社庁では標記の通りですが、ここでは「御社宮司社」で進めます。

 明治の神社合併で、南大熊から南方・北方御社宮司社合併の申し入れがあったそうです。北大熊の猛反対でその話はなくなりましたが、その結果、現在も南方御社宮司社と北方御社宮司社が存在することになりました。しかし、合併は国の命令です。調停で、村内の小社・雑社は、鎮座地を無視した「くじ引き」で両社に合併されたそうです。

南方御社宮司社

南方御社宮司社 大熊公民館から山に続く道をたどると、初対面は、余りの急坂ゆえに「アゴの先の南方御社宮司社」となりました。
 古社に不似合いな新しい碑を読むと、何と、「ここに移転した」とあります。本の紹介で初めてここに来ましたから、かつての鎮座地がどこにあるのか想像もできません。

移転由来
 ここに移転復元された南方御社宮司神社は以前この地から約二百メートル南東の地にあって、緑の木立の中に氏子の心の寄りどころとして静かに鎮座されていましたが、昭和四十一年七月国土開発幹線自動車道路法による中央自動車道西宮戦の決定により神社の移転が要請されたのであります。
 爾来(じらい)遷座先の位置、神社の復元計画等関係者の努力が続けられた結果、地主の協力を得てこの場所が選定されたのであります。
 昭和五十一年二月、神社移転について地元から依頼を受けた市長は、神社の尊厳を具現するための構想を基に地元から選出された建設委員と共にこの計画の推進を図り、市内を一望に見渡すこの地に南方御社宮司神社の新築等遷座を終了したのであります。
 郷土の限りない繁栄と恒久の平和のためにご加護をこい願い、ここに神社移転の由来を記して後世に残さんとするものであります。

 境内に「大正橋」があります。もちろん空川ですから、旧鎮座地にあったものを移転したのでしょう。その他“一族郎党”引き連れての引越ですから、同じ境内に、新しい拝殿や社務所と年代が大きく隔たった石祠も同居していることになります。

南方御社宮司社

 南方御社宮司社と旧鎮座地の位置関係がわかる写真です。

大熊南方御社宮司神社跡 後日、南方御社宮司神社の跡に碑があると聞いて、中央自動車道の側道を歩いてみました。
 藪に覆われかかった碑には「南方御社宮司神社跡」とあり、側面の刻みから昭和56年の建立とわかりました。背後が山になっていますが、これは車の通行の妨げにならないようにということで、あくまでその跡は高速道路の下ということでしょう。

北方御社宮司社

 上り下りはありますが、中央道に沿った道をのんびりと進みました。遠目ではお寺の御堂に見えたのが、北方御社宮司社の参集所(舞屋)でした。

北方御社宮司社 前回訪れた時に目にした「日参」の木札は見当たりませんでした。「札」の持ち回りで、各戸が必ず参拝(見回り)するシステムと聞きましたが、この一年の間に廃れたのでしょうか。
 拝殿に向かうと、上部から車の走行音が伝わってきました。「見た目には古社の雰囲気があります」と書くと、半分「荒れて寂れた」というイメージになりますが、拝殿右の石祠は、反っくり返ったりお辞儀をしたり、果てはバランスを取るために石を差し込まれたりと末期状態の姿です。整備された南方御社宮司社を参拝した直後ですから、地元北方の氏子にとっては、強制収用を免れたことは不運だったと見るべきでしょうか。

北方御社宮司社 拝殿の左側から、本殿が一番よく見えるように撮ってみました。三方は石垣で囲われていますが、諏訪湖を囲む標高750mラインにある神社の例に漏れず、拝殿の後ろの斜面に押し込めたような窮屈さでした。
 この先は、習焼神社・蓼宮神社・千鹿頭神社・小坂鎮守神社・小坂御頭御社宮司社と、諏訪明神以前からあったと言われる古社が続いています。習焼神社はやや離れていますが、いずれも中央自動車道のすぐ下に位置しています。しかし、「諏訪大社」目当てに参拝に来る人には“興味外”の神社でしょう。

南・北方御社宮司社遠望

 市街地を挟んだ足長神社から、中央自動車道下にある南方・北方御社宮司社を撮ってみました。
北方御社宮司社 上部の構造物が中央自動車道ですが、南方御社宮司社の旧鎮座地は、この写真では見ることができません。
 国土地理院の地図では、現在の南方御社宮司社のすぐ下が標高800mラインです。遙か昔はその下50mが諏訪湖面だったと言いますが、まったく想像できません。

南方御社宮司社 中央上が北方御社宮司社の舞屋の屋根です。地図では標高約810mです。
 因みに、諏訪大社本宮が約770mで前宮本殿が約800mです。改めて地図を見ると、中央自動車道は諏訪大社上社を避けて平地側へ迂回しているのがよくわかります。