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御贄柱と御頭屋 21.6.7

 ネット上では、「御贄柱(おにえばしら)」の何たるかを知らずに、したり顔で騒いでいる人が少なからずいます。そこで、初歩の知識として、標題の二つを諏訪の史料から拾ってみました。

御頭屋

 御贄柱の定義は「御頭屋の近くに設置される、贄の鹿肉を掛ける柱」ですが、まずは御頭屋から始めます。これには「精進屋・御頭小屋・お贄場」などの名前もあります。
 以下は、諏訪市『諏訪市史 上巻』にある「精進屋」の説明です。

 神使(おこう)の部屋は神棚と、天井は葦簾(あしず)でかこう。従人の部屋は火地炉・湯煮・流し場・厩(うまや)が設けられる。便所は屋外に神使用と従人が別々に作られている。建物周囲は、コモとか葦簾を張るだけである。

 精進屋は、その年の御頭郷が建てます。一ヶ月間の精進潔斎が終わると取り壊されるので、このような“寒々しい仮屋”となるのでしょう。

上桑原郷の御頭屋

 四賀村誌編纂委員会『四賀村誌』に〔上桑原郷の御頭屋〕についての記述がありました。四賀村は、現在の諏訪市四賀です。

古くは諏訪神社御頭の当番の際は御頭小屋を足長社社前に建てたる由伝えられるも、70才を越えたる老人も見たる覚えなしとの事なれば、明治以降は既に此事なかりしものか。

 上桑原の御頭御社宮司社は、急傾斜地の一画にあります。本来はこの近くに精進屋を建てたいところですが、上桑原一帯は平地を広く取れる土地がありません。そのために、鎮守社の足長神社境内に御頭屋と御贄柱を建てるしかなかったのでしょう。

御贄柱と御頭屋 同書に、伊藤久重氏蔵とある「文久三年(1863)の御頭屋見取図」が載っています。図版では長さの文字が潰れて読み取れないので、柱の位置が同じ「小坂村の御頭屋」を参考にして作り直してみました。柱の数が同じなので、「7間×2間半」という御頭郷共通の規格があると思われます。因みに、小坂村は現在の岡谷市小坂です。

御贄柱

 御頭屋が完成すると、御贄柱が建てられます。上図では、拝殿前の石段左()に描かれているのが御贄柱です。現在では手水鉢のある辺りでしょうか。長さは二間半(約4.5m)といいますから、鳥居とも見まがう御贄柱に付けられた串に、大量の鹿肉が掛けられたことになります。再び、同書から「御贄柱」に関する部分だけを紹介します。

二月三日「御贄掛」
 御頭屋の前に鳥居型に建てた御贄柱へ、十三貫六百匁(51Kg)の鹿肉を二五本の御贄串(長さ七五cm)にさして掛ける神事がある。

 一本の串に2キロの生肉が刺さっていることになります。それが25本ですから、現代の我々から見れば、正に異様な光景となります。

三月五日「御贄下ろし」
 御贄削り御杖削り

 御頭祭の料理の中に「削った鹿肉」が出てきます。この日に、御贄柱から下ろした肉を薄く(食べやすいように)削いだのでしょう。現在の暦では3月からの一ヶ月間ですから、解けたり凍ったりの繰り返しだと思います。この時期ではハエこそたかりませんが、カラスが…。それとも、茅野市名産の「寒天」と同じで、早い時期に“干し肉”になったのでしょうか。これなら、「切る」より「削る」の表現が合います。鹿肉を削っている傍らで御杖柱も削っている、と忙しくも奇妙な光景を想像してしまいました。

「不社」

 面白いのは、図中にある「不社」です。御頭屋が建っている間は「足長神社は神社ではない」としているので、ミシャグジ神の絶大な強さがわかります。その間は、足長明神は足を縮めて息を潜めているしかありません。

その他の史料に見る「御贄柱・おんね柱」

 贄柱に「御」が付いて御贄柱。その俗称が「おんね柱」。

御贄柱

 諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書 第三巻』に「諏訪縁起畫詞に関する覚書」と題された文書が収録してあります。「宮川村守矢真幸氏蔵」とあるので、神長官家に伝わる文書です。

一、贄掛之事、余日贄柱に掛け置き、三月酉の日神原にて献上、其の時ケツリ物ニシテ二重の四方に高盛して備え置き申候(もうしそうろう)、又鹿の頭七十余頭是は当日抹那板(マナ板)に居(す)え置き献上申候、其の外魚鳥備え置き申候事、(以上抜粋)

おんね柱

 細田貴助著『県宝守矢文書を読む』に〔神使御頭〕があります。[おんね柱のこと]から、関係ある部分を転載しました。

…安永より少し前の宝暦4年(一七五四)の文書があって、それに御杖およびおんね柱ということばが出ているのである。その文書は芹ヶ沢村の「申戌御頭諸事覚帳」といい、…その中に

一、おんね柱弐本、長(さ)弐間半、
一、壱本、おんつえ、

とある。おんね柱というのは大変長いもので四メートル五十センチもあり、それを二本使っている。おんつえ、すなわち御杖は一本であるが、どのようなものであるかは全く分からない。

 ここまで読めば、御贄柱がどういうものなのかが合点できたと思います。すなわち、冒頭に出る鳥居状の御贄柱が俗に言う「おんね柱」で、御杖柱が「おんつえ」ということです。

最後に、よく混同される「御杖・御杖柱」

 小坂郷に残る天明四年(1784)の『御頭規式帳』に、「御祭礼入用」として「御杖壹挺(長サ八尺五寸節ナシ、四寸五分角仕上)」と書いてあります。2.58m×14cmですから、現在と同じサイズの御杖柱を御頭郷が用意したことがわかります。
 この年に菅江真澄が御頭祭を見学しているので、『御頭規式帳』に則った神事を見たことになります。彼の著作『すわの海』と『規式』の内容を突き合わせれば、菅江真澄の記述がどのくらい正確なものかがわかるかもしれません。