ネット上には、「御贄柱(おにえばしら)」の何たるかを知らず、したり顔で騒いでいる人がいます。そこで、初歩の知識として、標題の二つを諏訪の史料から拾ってみました。
御贄柱の定義は「御頭屋の近くに設置される、贄の鹿肉を掛ける柱」ですが、まずは御頭屋から始めます。これには「精進屋・御頭小屋・お贄場」などの名前があります。
以下は、諏訪市『諏訪市史 上巻』にある「精進屋」の説明です。
精進屋は、その年の御頭郷が建てます。一ヶ月間の精進潔斎が終わると取り壊されるので、そのような“寒々しい仮屋”となるのでしょう。
小坂村の御頭屋が平面図として残っているので、ここに転載しました。2間半×7間の大きさです。
四賀村誌編纂委員会『四賀村誌』に〔上桑原郷の御頭屋〕についての記述がありました。四賀村は、現在の諏訪市四賀です。
上桑原の御頭御社宮司社は、急傾斜地の一画にあります。本来はこの近くに精進屋を建てたいところですが、この一帯は平地を広く取れる土地がありません。そのために、鎮守社の足長神社境内に御頭屋と御贄柱を建てるしかなかったのでしょう。
同書に、伊藤久重氏蔵とある「文久三年(1863)の御頭屋見取図」が載っています。
面白いのは、図中にある「不社」です。御頭屋が建っている間は「足長神社は神社ではない」としているので、ミシャグジの絶大な強さがわかります。足長明神は、その間は足を縮めて息を潜めているしかありません。
御頭屋が完成すると、御贄柱が建てられます。上図では、拝殿前の石段左(◯)に描かれているのが御贄柱です。現在では手水鉢のある辺りでしょうか。
細野正夫・今井広亀著『中洲村史』が、上金子の『御頭社方江贈物帖』を引用しています。その添付図にある御贄柱は長さ二間半(約4.5m)ですから、鳥居とも見まがう御贄柱に付けられた御贄串25本に、大量の鹿肉が掛けられたことになります。
また、幣串は「2本・丈3尺・巾2寸」と書いていますから、御贄柱の左右に幣帛が取り付けられたことがわかります。
再び、同書から「御贄柱」に関する部分だけを紹介します。
一本の串に2キロの生肉が刺さっていることになります。それが25本ですから、現代の我々から見れば、正に異様な光景となります。
御頭祭の料理の中に「削った鹿肉」が出てきます。この日に、御贄柱から下ろした肉を薄く(食べやすいように)削いだのでしょう。
現在の暦では3月からの一ヶ月間ですから、寒い諏訪では解けたり凍ったりの繰り返しだと思います。この時期ではハエこそたかりませんが、カラスが…。それとも、早い時期に“フリーズドライの干し肉”になったのでしょうか。これなら、「切る」より「削る」の表現が合います。鹿肉を削っている傍らで御杖柱も削っている、と忙しくも奇妙な光景を想像してしまいました。
諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書 第三巻』に「諏訪縁起畫詞に関する覚書」と題された文書が収録してあります。「宮川村守矢真幸氏蔵」とあるので、神長官家に伝わる文書です。
一、贄掛之事、余日贄柱に掛け置き、三月酉の日神原にて献上、其の時ケツリ物ニシテ二重の四方に高盛して備え置き申候(もうしそうろう)、又鹿の頭七十余頭是は当日抹那板(マナ板)に居(す)え置き献上申候、其の外魚鳥備え置き申候事、(以上抜粋)
各書から関係ある部分を転載しました。
一、おんね柱弐本、長弐間半、
一、壱本、おんつえ、
ここまで読めば、「おんね柱」がどういうものなのかが合点できたと思います。すなわち、冒頭に出る鳥居状の御贄柱が俗に言う「おんね柱」で、御杖柱が「おんつえ柱」ということです。
小坂郷に残る天明四年(1784)の『御頭規式帳』には、「御祭礼入用」として「御杖壹挺(長サ八尺五寸節ナシ、四寸五分角仕上)」と書いてあります。2.58m×14cmですから、現在と同じサイズの御杖柱を御頭郷が用意したことがわかります。
菅江真澄は同年に御頭祭を見学していますから、「御頭規式」に則った神事を見学していたことになります。彼は、その記録『すわの海』では「御杖を御贄柱と言う人がいるが、そうではない」と書き、左図の『民俗圖會』では「御贄柱」の名称で「土俗は、おんね(御贄)柱と呼ぶ」と書き込んでいます。
そのことから、輪番で御頭郷を務める諏訪の郷村は周知の「御杖」で呼び、それ以外の地から参集した人々が話としては面白い「御贄柱」と言い合っていたことが想像できます。