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御射山祭今昔 富士見町御射山社 '13.5.30 改

 「中世⇔現代」を行きつ戻りつの話なので、混同しないようにしてください。

大四御庵と山御庵の関係

 参考として、江戸時代初期とされる、神長官守矢史料館蔵『復元模写版上社古図』の一部を用意しました。

大四御庵社祭 『画詞』では、御射山御狩神事の二日目を「榊を捧げて山宮に詣ず。下向の後、四御庵の前にて大祝御手払い」と書いています。
 誤読の可能性があるので、「大祝=大四御庵なので、大祝の御手払いは大四御庵が対象ではない」と補足してみました。
 さらに、「大祝は山宮(山御庵)に榊を捧げた後で大四御庵の前に戻り、各四御庵(上社と下社の神々)を背にして(従えて)御射山に集まったすべての人民に向けて拍手を打った」と解説してみました。
 『復刻諏訪史料叢書』にある「守矢家諸記録類」の中から『嘉禎神事事書』を抜粋しました。御射山祭五日目の様子です。

(三十)
…西に向きたる大庵(※大四御庵)には大祝殿夜宿給(とまりたまい)(か)の前にて山宮に向けて大祝殿大宣(おおのと)を読み上げ奉り、幣帛には小花を幣に取り副(そろ)え天下泰平を祈請致して、手をハタハタとたたき給えば…

 「彼」は大四御庵を指すので、拝礼の対象は山宮となります。ここで、なぜ両社があれだけ離れているのかという疑問が生じました。近接していれば行ったり来たりする手間が省けますが、祭場を広く空けて、群衆した人々に見てもらうというサービスでしょうか。

明治以降の諏訪明神は、なぜ“御射山”社に遷座するのか

現行の御射山祭

大四御庵社祭 現在は、御射山祭の中日である8月27日に、諏訪明神の御霊代を乗せた神輿が上社本宮から御射山に渡御します。
 神事は、その神輿を大四御庵社の前に安置した「大四御庵社祭」から始まります。


御射山社 次に、神輿は向かいの社殿(覆屋兼拝殿)に安置され、御射山社祭が始まります。
 御霊代の奉遷は、神事の中で「神輿→御射山社・御射山社→神輿」という形で行われます。


国常立命社 次に、国常立社祭が行われます。国常立社には、すでに昨日の内に本宮から渡御した国常立社命の御霊代が遷座しています。
 御霊代は、御射山祭の期間中はここに遷座しています。


国常立社命の御霊代が、本宮から御射山へ遷座する不思議

 このように、旧来なら「大祝が大四御庵に参籠して、山宮の国常立命を参拝する」図式ですが、現在はそれとは大きく異なっています。「大祝が存在しない」という決定的な要因があるので当然ですが、旧儀にできる限り倣うとすれば、もう少し合理的な“システム”にできたのでは、と思えてなりません。
 例えば、「国常立命を国常立社に“常駐”させる(神輿で渡御しない)─御射山に鎮まる神」という形があります。「諏訪明神が御射山に出かけて国常立命に会い、両神並んで歓談しながら民の参拝を受ける」となるので、理に適います。
 地元の富士見町編『富士見町史』から、関係する部分を転載しました。

 さきに述べたように御射山社の主神はいずれの神か、その神殿はどの社であるかを考えてみると、神事からすれば、現在は諏訪大社の神輿が西の御射山社前に到着し、そこで修祓する。其の後、東の(大)四御庵社に行き御手幣を奉って神事を行い、しかる後に御射山社に帰ることから、本殿(神殿)にあたるところは大四御庵社となる。大四御庵社には、低い石の玉垣をまわした中に石祠がある。この祠の祭神は、大物主命(大国主命)・事代主命・下照姫命・建御名方命である。(中略)
 大祝が御狩りの行事をすることは、獣をとり、その生贄を祖先神に捧げ、報恩を謝すための神事をおこなうことであるから、本殿は大四御庵社ではなく、西の御射山社としなくてはならない。
 しかし、生け贄のための獣を与えてくれるのは山ノ神で、こうした神にも報恩を謝せねばならない。それで、天津神の神世七代の第一代、国常立神を御射山社の神と共に祀ることにしたのであろう。
 江戸時代に描かれた絵図には、御射山社ではなく三輪社となっている。左には虚空蔵(神仏習合時代の国常立神)の建物が描かれている。この絵図からすれば、江戸時代は三輪社で、幕末または明治以降からは御射山社としたのかもしれない。とすれば、三輪社の前はどのような社であっただろうか。

 『富士見町史』も現在の神事に疑問を呈し、  と解説しています。それは別として、中段の「しかし」以降が私の考えと噛み合いません。ところが、何回も咀嚼(そしゃく)する中で、

石祠の大四御庵社では諏訪明神が遷座する余地がなく、神輿に乗ったままでは国常立命に挨拶できない。→仮遷座する御旅所が必要。→それが「御射山社」

と落ち着きました。それでも、『富士見町史』は、現行の神事を肯定するための(苦しい)説明であることは変わりません。

なぜ「御射山」社

 御射山社の名称からは「御射山の神は諏訪明神」と連想(誤解)してしまいます。くり返しになりますが、『富士見町史』もこの名称に困惑しているようで「本殿は大四御庵社(諏訪明神)ではなく、御射山社(国常立命社)にしなくてはならない」としていますが、そこに諏訪明神が座ってしまう現実に後の解説が続きません。
 振り返ると、明治までの御射山には「御射山社」がなかったので、「御射山にある社だから御射山社」と単純に命名したことが推察できます。これが誤解の元になっているわけですから、“普段は無神”となる御射山社を「諏訪明神御旅所」と改称したほうがスッキリします。しかし、明治以降百年余も続いている神事に改善提案の声を挙げても…。

国常立命と御射山社

 「現在は鹿を獲る必要がないので、国常立命に頭を下げなくてもよい」時代ですから、「両社相並び立つ」という現在の形でも納得できます。また、これが現在の御射山祭の姿でしょう。それでも、御射山祭に合わせて国常立命が本宮から来る現行の祭事では、「夏の林間学校」のように見える気がしないでもありません。
 また、国常立命は諏訪大社本宮のどこかに祀られているはずですが、その社殿がどこにあるのか、私は知りません。