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中世の大四御庵社 富士見町御射山社 25.5.30 改

 「中世⇔現代」を行きつ戻りつの話なので、混同しないようにしてください。

中世の御射山

 御射山には、大四御庵・前宮四御庵・磯並四御庵・下宮(しものみや)四御庵があります。大祝が参籠する大四御庵は上社本宮を表すので、御射山に鎮まる山御庵の前に「上社の本宮と前宮・磯並社を“再現”した」と書いてみました。下宮四御庵は下社ですから、上社が“招待した”と考えるとわかりやすいでしょう(か)。

『年内神事次第旧記』での名称

大四御庵社とは

 武井正弘著『年内神事次第旧記』では、大四御庵の「注釈」に「御射山に仮設する大宮(※本宮)の籠屋(こもりや)茅の穂で葺く穂屋である。以下、前宮・磯並・下宮の各社の四御庵も設けられた」と書いています。大変わかりやすいので「説明文」として転載しました。
 戦国時代になりますが、永禄9年(1566)の「廃れた神事を再興しろ」という武田信玄『諏訪上宮祭礼退転之所、再興令次第』には、「一、御射山四御庵退転に就き神前の文書開き見の所、桑原上下両郡の役に為すべし…」と見えます。戦乱が続いた一時期には、仮屋であっても造営が途絶えていたことがわかります。以下は、『再興令次第』にある四御庵の仕様です。

付・一社材木数大般此の如し
一、柱三本長さ一丈五尺大もちたるべきの事
一、棟木二本長さ一丈八尺 一駄二丁付の事
一、裏の柱三本長さ六尺 一駄二丁付の事
一、垂木三十本長さ一丈八尺の事
一、屋中(床)六枚長さ一丈八尺の事

大四御庵社復元図 左図は、宮地直一著『諏訪史第二巻後編』に載る、「永禄下知状に掲出する」とある「四御庵復原想像図」です。一目で理解できるので、カラー化して転載しました。ただし、「柱三本・裏の柱三本」が“4本”で描かれています。想像図なので、柱の数(宮地博士)にクレームをつけるより「形状が判ればそれでよい」としました。
 大祝の参籠(宿泊)所でもこの仕様です。雨でも降ればとても寝られたものではありません。また、生き神の大祝といえど蚊が襲うはずですから、煙いのは我慢して一晩中焚き火でいぶしたのでしょう。庵が全焼したという記述も納得できます。


大四御庵と山御庵の関係

 参考までに、江戸初期作と推定される神長官守矢史料館蔵『復元模写版上社古図』の一部を用意しました。

大四御庵社祭 『画詞』では、御射山御狩神事の二日目を「榊を捧げて山宮に詣ず。下向の後、四御庵の前にて大祝御手払い」と書いています。「大祝=大四御庵」ですから、拝礼の対象は(分身とも言える)大四御庵ではないことが明らかです。
 そのため、大祝は山宮(山御庵)に榊を捧げた後で大四御庵の前に戻り、各四御庵(上社下社の神々)を背にして(従えて)「山宮を拝礼した」と解釈するのが妥当です。
 『復刻諏訪史料叢書』にある「守矢家諸記録類」の中から『嘉禎神事事書』を抜粋しました。

(三十)
…西に向きたる大庵(※大四御庵)には大祝殿夜宿給(とまりたまい)(か)の前にて山宮に向けて大祝殿大宣(おおのと)を読み上げ奉り、幣帛には小花を幣に取り副(そろ)え天下泰平を祈請致して、手をハタハタとたたき給えば…

 「彼」は大四御庵を指すので、拝礼の対象は山宮であることが確定しました。ところが、なぜ両社があれだけ離れているのかという疑問が新たに生じました。近接していれば行ったり来たりをしなくて済みます。祭場を広く空けて、群衆した人々に見てもらうというサービスでしょうか。

(明治以降の)諏訪明神はなぜ“御射山”社に遷座するのか

大四御庵社祭 現在は、上社本宮から渡御した神輿を大四御庵社の前に安置して、「大四御庵社祭」が行われています。
 この神事が終わると神輿は向かいの御射山社へ運ばれ、諏訪明神の御霊代はその本殿内に遷座します。隣の国常立命社には、すでに昨日のうちに本宮から渡御した国常立命の御霊代が遷座しています。

 旧来なら「大祝が大四御庵に参籠して、山宮の国常立命を参拝する」図式ですが、現在はそれとは大きく異なっています。「大祝が存在しない」という決定的な要因があるので当然ですが、旧儀にできる限り倣うとすれば、もう少し合理的な“システム”にできたのでは、と思えてなりません。
 例えば、「国常立命を国常立命社に“常駐”させる(神輿で渡御しない)−御射山に鎮まる神」という形があります。「諏訪明神が御射山に出かけて国常立命に会い、両神並んで歓談しながら民の参拝を受ける」となるので、理に適います。地元の富士見町編『富士見町史』から該当する部分を取り上げてみました。

(前略) 神事からすれば、現在は諏訪大社の神輿が西の御射山社前に到着し、そこで修祓する。其の後、東の(大)四御庵社に行き御手幣を奉って神事を行い、しかる後に御射山社に帰ることから、本殿(神殿)にあたるところは大四御庵社となる。大四御庵社には、低い石の玉垣をまわした中に石祠がある。この祠の祭神は、大物主命(大国主命)・事代主命・下照姫命・建御名方命である。(中略)
 大祝が御狩りの行事をすることは、獣をとり、その生贄を祖先神に捧げ、報恩を謝すための神事をおこなうことであるから、本殿は大四御庵社ではなく、西の御射山社としなくてはならない。
 しかし、生け贄のための獣を与えてくれるのは山ノ神で、こうした神にも報恩を謝せねばならない。それで、天津神の神世七代の第一代、国常立神を御射山社の神と共に祀ることにしたのであろう。(後略)

 『富士見町史』も“現在の神事”に疑問を呈しています。それは別として、最後の「しかし」以降の部分が私の考えと噛み合いません。ところが、何回も咀嚼(そしゃく)する中で何かが見えてきました。

石祠の大四御庵社では諏訪明神が遷座する余地がなく、神輿に乗ったままでは国常立命に挨拶できない。→仮遷座する御旅所が必要。→それが「御射山社」

と落ち着きました。それでも、『富士見町史』は、現行の神事を肯定するための(苦しい)説明であることは変わりません。

なぜ「御射山」社

 御射山社の名称からは「御射山の神は諏訪明神」と連想(誤解)してしまいます。『富士見町史』もこの名称に困惑しているようで「本殿は大四御庵社(諏訪明神)ではなく、御射山社(国常立命社)にしなくてはならない」としていますが、そこに諏訪明神が座ってしまう現実に後の解説が続きません。
 振り返ると、明治までの御射山には「御射山社」がなかったので、「御射山にある社だから御射山社」と単純に命名したことが推察できます。これが誤解の元になっているわけですから、“普段は無神”となる御射山社を「諏訪明神御旅所」と改称したほうがスッキリします。しかし、百年余も続いている神事に改善提案の声を挙げても…。

国常立命と御射山社

 「現在は鹿を獲る必要がないので、国常立命に頭を下げなくてもよい」時代ですから、「両社相並び立つ」という現在の形でも納得できます。また、これが現在の御射山祭の姿でしょう。それでも、御射山祭に合わせて国常立命が本宮から来る現行の祭事では、「夏の林間学校の行事」のように見える気がしないでもありません。
 また、国常立命は諏訪大社本宮のどこかに祀られているはずですが、その社殿がどこにあるのか、私は知りません。