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小坂鎮守神社 岡谷市湊 17.10.16

 『諏方大明神画詞』では、御神渡りの一つを「佐久新開神社と小坂鎮守神社の祭神が会った跡」と書いています。

毎年臘月(ろうげつ※12月)中、日限はさだまらず、極寒の時節、日夜の間に御渡(※御神渡り)あり、(中略) 又、佐久の新開社は行程二日斗(ばか)り也、彼(かの)明神と郡内小坂(おさか)の鎮守の明神と、二神湖中に御参会あり、然れば大小通路三ノ跡、辻(つじ)の如くにして歴然たり、誠に人力の及ぶ所にあらず、(後略)
諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書 第一巻』

 『画詞』にも登場する小坂鎮守神社は、私の感覚では“下社の圏内”です。そのため、「下十三所の一社であり、岡谷市小坂に鎮座している」と言い切ることができても、(上社の氏子である私は)小坂のどこに鎮まっているのかを知らずにいました。

小坂鎮守神社へ

 これだけ詳細なら迷うことはないという地図を用意しましたが、小坂観音院入口付近の余りにも入り組んだ道に行き過ぎてしまいました。気を取り直して山手の道をとると、左方に、コンパクトながら拝殿と本殿が揃った神社が見えます。鳥居に「花岡社中」とあるので、この辺りを本拠地とした諏訪神社上社縁(ゆかり)の花岡氏末裔の祝神(氏神)でしょうか。ごくありふれた山道でしたが、歴史の古さに輝きが加わったような気がしました。
 小坂鎮守神社の鳥居を左に見てから、一呼吸入れました。傘を持参した天候では、歩みを止めると背中にうすら寒さを感じます。正面は中央自動車道の巨大な“隔壁”が立ちはだかり、地鳴りのような走行音を放射しています。その基部に開いたトンネルの向こうに消えている道は、鎮守の地から外れた、魑魅魍魎(ちみもうりょう)が支配する地に続いているように見えました。
 境内にある案内板から、〔由緒〕のみを転載しました。読みやすいように、改行と句読点を入れました。

 鎮座年代は明らかでないが、古来諏訪神社の末社で旧小坂郷の産土神として崇拝されてきた古社である。小坂鎮守神社は、その昔は鎮守神明・下照姫社・小坂鎮守社などと称されたが、明治末年頃から小坂鎮守神社と改称され諏訪明神の摂社となる。
 桓武天皇延暦中(780年代)式年御造営の制度が定められ国内永代の課役を始めた時、当神社は諏訪神社の末社であったので同じく造営の式が行われている。鎌倉幕府に至ってもその旧典を守り、嘉暦四年(1329年)小坂郷に式年造営を行わせており、連綿と今日に至るまで式年御柱祭が行われている。
『諏訪藩主手元絵図』に「チンジュ・シンメイ」とある。

小坂鎮守神社 一般には、小坂鎮守神社より、湖衣姫や由布姫で知られている同名の「小坂観音院」でしょうか。その麓を通勤路としていますが、その小坂観音院のさらなる上部に小坂鎮守神社があるとは思ってもいませんでした。
 左に「舞屋」の案内板がありますが、それは帰りとして、早速石段を上がって拝殿へ向かいました。

小坂鎮守神社拝殿 一壇上にある覆屋の上部が大きく空いていますから、本殿の拝観は約束されたのも同然です。しかし、これも順番ですから、まず拝殿前で拝礼を済ませてから、その脇を登りました。
 ところが、本殿を見下ろすという位置に立ちましたが、覆屋の腰板が阻んで屋根だけしか見せてくれません。改めてその後部を見回すと、覆屋(本殿)は斜面を掘り込んだ中に収まっていることに気がつきました。保護するのが遅かったと悔やまれる、余りにも傷んだ柿(こけら)葺の屋根を見たからなのでしょうか、覆屋周りの狭い空間に、ヒノキやスギの木々を通して山から流れ込んできた湿気が淀んでいるように思えました。気を取り直して、囲いの上からカメラを片腕一杯に延ばして何回かシャッターを切りました。
 拝殿前に戻ると木々の間を通した諏訪湖が見えましたが、舞屋跡という広場の突端に立つとそれが一望にできました。

小坂鎮守神社本殿

小坂鎮守神社本殿 止めようにも震えてしまう液晶画面を斜めに確認するという撮り方でしたから、まともなものは一枚もありません。それでも、修正ソフトで強制的に“正常”に戻したこの写真を紹介することができました。
 この過程で、本殿の左下に、石祠の一部が写っていることに気がつきました。この社殿ができる前の本殿を「元宮」として安置してあると理解しました。

 小坂区誌編纂委員会編『小坂区誌』では、〔神社明細〕として社殿を「柿葺流し破風造 間口五尺九寸奥行七尺一寸 明和七年(1770)再建」と書いています。添付写真の「棟札の写」を読むと、「信州伊那郡澤底村 棟梁 有賀吉左エ門尉滋房・仝 有賀友右エ門尉佐忠 脇棟梁 有賀文次郎・仝 小坂村岩波忠左エ門」の名がありました。
 3人もの有賀姓から、(現在の)辰野町沢底に有賀姓が多かったことを思い出してしまいました。家紋が一枚葉の梶である「立穀(たちかじ)」であることから、かつては諏訪神社(諏訪大社)の造営に関わる大工の集団があったのでしょうか。

舞屋(神楽所)

 案内板に「明治四十四年に火災で焼失」とあるので、正確には舞屋跡です。その跡地に古絵図が展示されています。

舞屋跡と諏訪湖
舞屋跡から諏訪湖を見る(平成21年5月)

 『小坂区誌』では「この舞屋が消失する前の明治年代製作の『村社小坂鎮守社之景』銅板が現在残されている」と説明があるので、この銅板を刷ったものが舞屋の絵として案内板に貼られていることがわかります。因みに、舞屋は「神楽所」と書かれていました。

〔村社小坂鎮守社之景〕の原版 28.9.23

 渡辺市太郎編『信濃宝鑑 六巻』に、案内板の絵と同じものがありました。

小坂鎮守社之景
〔村社小坂鎮守社之景〕(部分)

 明治33年当時は写真を刊行物に載せる技術がまだなかったので、細密な銅版画を使ったことがわかります。発刊後にその原版を小坂区に寄贈した、または区が買い取った、それとも同じものが二枚作られたなど、色々と想像できます。
 改めて眺めると、舞屋の他には「本社上屋」と書かれた社殿が一棟あるだけなので、この頃には現在の拝殿はなかったことがわかりました。