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小坂御頭御社宮司社 岡谷市湊 21.6.2

 “初めての人”に「旧道」と言っても何の意味もありませんが、諏訪湖沿いのバイパスができるまでは、山裾を通る通称「西街道」が幹線道路でした。

小坂御頭御社宮司社(糠塚古墳) その旧道から撮った、左上のポコッと飛び出た濃い緑塊が「小坂御頭御社宮司社」です。「古墳ではないか」と見た人は大当たりで、「糠塚(ぬかづか)古墳」の上に鎮座しています。

 ところが、その直近に立っても、どう行っていいのか悩みます。民家の間の小道は、どう見ても私道のように思えるからです。遠回りになりますが、人家が途切れた下にある狭い道を通った方が無難としました。それが正解で、裾を廻って墳丘上に至る道でした。

小坂御頭御社宮司社

小坂御頭御社宮司社「本殿」

 まず目に付いたのが鳥居の後ろにある大木、ではなく前の「大石」です。この下が古墳と知っていたので、その「蓋石」と見ました。写真には写っていませんが、左方にある神社は「伊藤姓祝神社」でした。
 『糠塚古墳「御頭御社宮司神社」の由来』とある案内板の一部です。

 御頭御社宮司神社の起源は古代飛鳥時代6世紀頃と推定される。
 諏訪大社大祝有員(桓武天皇の六皇子)諏訪に入信の折り、天皇系藤原氏の高貴の人を伴い、この一族が西山一帯を司った関係で藤原氏の同族をこの糠塚に葬ったと考える。これが糠塚古墳であり又集落の中に御社宮司社(土着の神)七社あり、これを糠塚古墳地に集め一ヶ所に合祀したという。又、別面古墳の証として糠塚の隣接地に藤原系を祖先とする伊藤氏の祝殿が建立されている。

 諏訪大社の名称は戦後。「大祝」のふりがなが「おおほりい」になっている。「入信」は「信州(信濃国)に入る」ことなので、「諏訪に入信」では意味不明になる。これは「入諏」2文字で事足りると、早々に突っ込みを入れてしまいました。
 しかし、設置者が「岡谷市教育委員会」ではなく、「いけいけ山っ湖事業委員会・遊歩道整備事業コミュニティー部会」とあるのを見て納得しました。

小坂御頭御社宮司社

 御頭御社宮司神社の社殿額は、官幣大社諏訪神社時代の高階研一宮司の揮毫でした。

小坂御頭御社宮司社「本殿」
小坂御頭御社宮司社「本殿」

 拝礼をしてから拝殿をのぞくと、私には「なぜ」としてしまうダルマが置かれています。これは、「小坂姓御頭御社宮司社」とあるように、現在は「小坂さん」の祝神社(氏神社)になっていることで容認できます。しかし、私は旧小坂村の御頭御社宮司社として来たので、プライベート神社には拍子抜けしてしまいました。

「貝塚」 墳丘の斜面に、貝殻が散在しているのを見ました。古くはすぐ下が諏訪湖面だったと言われていますから、古墳築造以前は貝塚だった可能性があります。
 貝塚とすれば、縄文から現在までの遙かな時間差を直接目にできるのは、諏訪でもここだけということになります。国土地理院の地形図では、標高770mでした。

小坂七御社宮司社

 小坂区史編纂委員会『小坂区史』から〔御頭御社宮司社〕の一部を転載しました。

由緒
 明治十一年諏訪神社摂社に加列す
 旧御頭御社宮司社の一座也
 以上は昭和十三年十一月諏訪史編纂部諏訪史談会湊村史蹟並史料調査による。現在は小坂氏祝殿となっている。往古小坂には御頭御社宮司社が七ヵ所あったとされている。宝暦4年の「覚」によると、糠塚の一社の外は田畑などに切開かれたりしてその跡もなくなってきたので、一ヵ所にまとめて祀ることに村中へも相談し、また神長官にもお願いして糠塚へ祀ることにしたとある。

「頭首」

 諏訪史談会『諏訪史蹟要項・湊村篇』に〔頭首〕の解説が載っています。紹介する機会がないので、縁の深い「小坂」御頭御社宮司社の最後に加えました。

頭首職
 諏訪史二巻後編に、「此に至り(江戸時代に)復(替?)た頭人を選出する事なく、中世の頭人は頭首職の名の許に小坂氏之を世襲して祭庭に臨む」とあり、又、頭人とは頭郷を代表して神事を勤むる者の称である。上宮神事次第大概に「御頭役人を頭殿とは土俗にいえり。頭首と云う神人の事なり」とある。

 江戸時代以降は、小坂村には「頭首」と呼ばれる小坂氏がいて、御頭の神事を全て仕切ったとあります。強引な“例え”ですが、(これしか浮かばないので)吉良上野介で有名な祭典に通じた吉良家を挙げました。古記録に「御頭郷に当たると、頭首へ挨拶に行く」とありますから、いかに重要職であるのかがわかります。また、「十間廊之図」には御頭祭の席順が書いてあり、“民間”では最前列中央の位置が頭首になっていました。