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御射山社「大鳥居と境改め」 諏訪郡原村・富士見町 23.5.30

境改め 「御射山社(みさやましゃ)の北東に」と言ってもピンと来ません。やはり「八ヶ岳に向かって」とした方が感覚的に“落ち着き”ます。ここに、参道並木とも防風林とも見分けがつかない帯状の林があります。年に一日だけ御射山祭の臨時駐車場として賑わいますが、普段は農作業に通う人だけが意識にないまま横に見るだけでしょう。

御射山社北側古参道
 境改めの杭

 この林の長軸に沿って、「境改め」の杭が打ち込まれています。新年度に「財産区」として点検するそうですから、古い杭の中にまだ鮮やかな赤い頭が覗いています。「中新田」と書かれていますから、富士見町ではなく、原村の中新田区です。通常は見えない「線引き」なので、ここでは「その向こうが原村か(こちらが富士見町か)」という具体的な認識が持てます。

 草丈がまだ低いこともあって、杭が並列していることに気がつきました。目測ですが「10m×500m」という極長の土地にどんな意味があるのか理解できません。それはそうとして、今日は、そのほぼ真ん中に当たる藪と化した参道並木を伝って大四御庵社向かいました。もはや無に帰った「参道と鳥居」ですが、それでも「跡でも残っていないか」とあちこちに目を光らせてしまいます。実は、密かに「万が一」を期待していたのですが、そのまま“順当に”大四御庵社の後ろに出てしまいました。

 自宅でネット地図を開くと、境改めの区画がそのまま原村と富士見町の境界になっています。その破線を目でたどると、周辺部も複雑な“動き”をしています。“何かあった”ことが想像できますから、一部ですが、その町村境を赤く塗ってみました。


赤線(破線)が、原村(中新田区)と富士見町(御射山神戸区)の境界

御射山社の社地(境内)

 中新田区とは関わりがないといっても、私は同じ原村の住人です。また、このサイトが「諏訪大社と諏訪神社」を名乗っていることもあって、御射山社絡みで少し調べてみました。
 分厚くて重いが故に読みにくいのが『原村誌』です。この形態にした担当者を呪いましたが、コストの関係もあるので文句は言えません。かなりのページを割いた〔入会地・林野と村民〕の章に「御射山社地」が載っていますが、これは後出の『原村草場論』に詳しいので、そちらで紹介することにしました。一方の当事者である「富士見町」の“言い分”を『富士見村誌』や『富士見町史』で読んでみましたが、具体的な記述を見つけることはできませんでした。
 原村在住の中村久太郎著『原村草場論』があります。『草場論』とあって「原村入会地」の研究書ですが、私はその「大いなる利権」に与(あずか)れない新興(弱小)地区の住民なので、全文を読む気力は持ち合わせていません。以下に「御射山社地」だけを抜粋・転載しましたが、引用文献が読みにくいので[,]を加えました。

明治三十五年区年代記に、
下原山の御射山神社並木北の土地を該原野分割に際し中新田にて習得したるところ,諏訪神社神官の請求により公園とし旧慣を維持し度(た)くに付,公園に寄付し他の土地を交換せり,此の旧慣により穂屋祭(※御射山祭)の際は諏訪神社の御神輿本年より中新田を通行穂屋の神社に行く事となる
とあり、明治三十五年より諏訪神社の神輿が中新田回りとなる是迄は柏木大山祇神社室内闢廬社より御射山社であった。

 「御射山社の隣接地を諏訪神社に寄付(代替地と交換)した“見返り”に、御射山祭で諏訪明神の御霊代が乗った神輿が中新田区に寄るようになった」ことがわかりました。以下はこの続きです。

明治二十二年九月中新田区年代記
同年九月中新田所有地字御射山
原山大明神大門風除と原山神社との境界の義に附,上社神宮事務所より役員派出に及原村役場より村吏立会で境界塚を定めたり
同年八月三十日右大門並木を抜き木に売却し伐木に着手せし所,御射山神戸のものども多人数現場に参り乱方(暴)に故障(※異議・苦情)なしたるに付
とあり、古来より中新田固有のものと主張する中新田と御射山神戸の物であると主張する原山並木についての紛争である。
 次のように中新田では共有山林証明願を出し、御射山神戸では保護願を出したが中新田の言い分が通った。(後略)

 このような“秘事”があったので、現在も「毎年の境改め」が欠かせないのでしょう。総会の議事で、旧役員が新役員に「このこと」を申し送りしている様子をつい想像してしまいます。
境界塚 文中の「境界塚」から納得した「物」がありました。実は、冒頭の藪の中で「石を積んだ小塚」を見ていました。この時は「この辺りは歌・句碑が多いので、破損などで碑を撤去した台座だろう」で終わらせていました。それが「大門風除と原山神社との境界塚」とわかり、「参道並木は防風林」と知りました。また、「大門=鳥居」から、この附近に御射山社の大鳥居があったことが確実になりました。

御射山社大鳥居

 富士見村誌刊行会『富士見村誌』に「御射山付近の史蹟」が載っています。そこに「大鳥居と鳥居原」があったので転載しました。

 その位置は明らかではないが、大体馬場の北側、中新田の御射山大門の中、大四御廬社の東方にあったものと思われる。別に馬場を外れて中新田の方へ行く道沿いに鳥居原とという地名がある。これは大鳥居より遙か東に当たっている。

 次は『諏方大明神画詞』から、御射山御狩神事の初日です。

漸く晩頭(※日暮れ始め)に及んで物見ヶ岡に至る、見物の緇素(しそ※僧俗)群集す、さて大鳥居を過る時は一騎充(づつ)(声)をあげてとおる、前官男女の部類、乗輿騎馬の類(たぐい)、前後につづきて櫛の羽(歯)の如し、
諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書 第一巻』

『上社古図』 茅野市神長官守矢史料館蔵『復元模写版上社古図』から、「御射山社」の部分を用意しました。ススキが各所に象徴的に描かれており、思わず頷いてしまいます。
 下部にある鳥居が『諏方大明神画詞』に見える「大鳥居」です。中世までは式年造営されましたが、「今ナシ」と書かれているので、御射山社が摂社として重要であっても、江戸時代にはすでに退転していたことがわかります。
 冒頭に「藪の中を大四御庵社へ向かった」と書いたのが、絵図では「下半分」の道です。現在の道は左へ迂回し、この絵図では「五官祝の穂屋」が連なっている横道に出ます。

 もしかしたら、私はかつてあった鳥居の下を潜(くぐ)っていたのかもしれません。そうでなくても、八百年前に、私の遠からず近からずの位置を「武者が、オーッと声を挙げながら騎馬で駆け抜けていた」可能性は十分あります。しかし、安直に想像(自分)の世界に浸れる私でも到底「そのこと」は想像できません。
 NHKドラマ「タイムスクープハンター」が「御射山御狩神事」を取り上げてくれると嬉しいのですが、ベースが「一般庶民」なので難しいでしょう。それでも「庶民が見た御射山御狩神事」という手がありますから、諏訪明神のお力沿えでNHKに働きかけて、と結局は他力本願の神頼みになってしまいます…。


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