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先宮神社・鷺宮明神 諏訪市大和(おわ) 17.8.16

橋のない神社

 「さきのみや」と読む「先宮神社」には、確かに橋がありませんでした。周囲を見渡すと神社の背後は山という地形ですから、水の流れとすれば、下写真では左から右へという川筋が自然です。

先宮神社 先宮神社は、かつては諏訪湖岸に位置していたとあります。そのことから、諏訪湖の水位が下がり・埋め立てられ・先宮神社前を横切る街道ができ・人家が集まった、という変遷を考えてみました。
 それなら、街道沿いに、現在の川の流れと同じ水路(側溝)を造るのは、人の営みの上からも自然で合理的です。そうなると、「先宮神社に橋を架けなかった」というのは、現在我々が見ている景観になってからのことだと思われます。次に「なぜ橋を架けないか」ということですが、ここで「国譲りに逆らったので幽閉した」という話を挙げても面白くないので、“代案”を幾つか考えてみました。

トボケたような内容ですが、この中の一つが真実に近い…。

先宮神社の祭神

 祭神の交替は時の風向きでよく行われてきましたから、祭神名から由緒を探るのは無理があります。それは別として、これだけの伝承がありますからやはり気になります。境内にある『先宮神社由緒記』では、祭神「高光(たかてる)姫命」別名「稲背脛命(いなせはぎのみこと)」でした。

高光姫命・高照姫命

 先宮神社の公式サイトがあります。ここに「高光姫命」と書かれた掛け軸の写真が載っていますが、その下の系図は「高照姫命(先宮神社)」で、「高光姫命は、建御名方神の姉と云われている」と注記があり、祭神の揺らぎが見られます。
 図書館にあった、宗教法人先宮神社発行・小口濤夫著『先宮神社誌』では、「高光(照)姫命 又云稲背脛命とされている」という表現です。また、「高照姫命は建御名方命の兄弟なので口碑(※国譲・幽閉説)と矛盾する」「『又云、稲背脛命』については古記録等全くなく詳らかではない」と書いています。

 同書には、先宮神社は『神社明細帳』には登録されたものの、(補助金が出る)「古社認定願」が何回も却下されたことが書いてあります。これは、(私のまったくの憶測ですが)地元がこだわった伝承「祭神高光姫命一云稲背脛命」にある「一云(いちにいう)」の曖昧さによるものと思われます。結局は、「高光姫命一云稲背脛命」で押し通して認可されたので、他の部分で付加価値を高めて再提出したでしょう。これが境内の案内板に繋がり、「なぜ稲背脛命なのか」と悩ませることになります。

稲背脛命

 出雲での、事代主命への“国譲れ”の使者が稲背脛命です。先宮神社とは関係薄ですが、「書いている中で、何かが繋がるかもしれない」と強引にこじつけてみました。

 交渉術の巧みさを買われた稲背脛命は、出雲に匹敵する勢力の諏訪に派遣された。ところが、“諏訪の祟り神”の怒りに触れて、大和(おわ)の地に閉じ込められてしまった。万策尽きた天津神のトップは「諏訪の神は弱い」と触れ回ったが、結局は「ミシャグジ恐るべし」として、諏訪と深く関わらないようにした。

伊奈西波岐神社

 諏訪では“このような”眉唾ものの「稲背脛命」ですが、調べると稲背脛命と白神を祭る「伊奈西波岐神社」が浮上してきました。島根県出雲市大社町浦にある神社です。「鷺浦」とあるように入り江に面していますから、かつての鷺宮(先宮神社の古名)と同じです。

先宮神社「波と兎」
先宮神社本殿の懸魚「波と兎」

 祭神は「稲背脛命」で合祀神が「八千矛神・稲羽白兎(いなばのしろうさぎ)神」です。先宮神社本殿の懸魚にウサギの彫刻があるのを知っていましたから、「白兎神と何か関連がありそう」と少し探ってみました。しかし、「サギがシラサギ・ウサギに通ずる」という記述が見られるだけでした。どうも、先宮神社の兎は、単に縁起物の「波に兎」として飾られたようです。

「鷺宮」は先宮神社の別称

 『先宮神社誌』には、はっきりしないと言われる社名や由来ですが、地元とあって多くの資料が載っていました。その中の一説に、神社前の干潟に鷺が多く舞う姿が見られたので「鷺ノ宮」になり、濁点が取れて「先ノ宮」になった、とあります。この説が「視覚的に美しい」ので、私も支持しています(という問題ではないのですが…)。

先宮神社本殿考

先宮神社の本殿 『先宮神社誌』であっても、本殿の記述はごく僅かです。『神社明細帳』に載せるための「取調書」には、「建築最も古く其の年号不詳・建築年号不詳」としか書いてありませんから、いつ誰が造営したのかは不明のようです。唯一あったのが「安政6年(1859)の屋根の葺替」でした。

 先日、山梨県で、本殿の懸魚にウサギの彫刻があるのを見つけました。

先宮神社と熱那神社のウサギ

 以下は、高根町教育委員会の案内板からの抜粋です。

保存されている棟札によれば、信州高嶋郡小和田村大工棟梁小松七兵衛の施工により、文政二己卯年六月九日(1819)に上棟されている。

 高嶋郡小和田村は、明治7年に「大和村・下桑原村・小和田村が合併して上諏訪村(諏訪市)」ですから、先宮神社がある大和の隣村になります。棟梁の「小松七兵衛」をネットで検索すると「立川和四郎冨棟の一番弟子」とあり、彼が施行した神社は、前記の熱那神社「文政二年(1819)」の他に松本市の和田神社本殿「寛政12年(1800)」がありました。
 「ウサギの彫刻が同じ」では「先宮神社の本殿は小松七兵衛が造った」証明になりませんが、私は、1800年代に彼が先宮神社の本殿を造った可能性が極めて高いとしました。それにしても、火災に遭ったわけではないのに棟札が残っていないのはなぜでしょう。

先宮神社本殿は文化十年に造営

 「鷺宮と手長明神」の関係を調べる中で、再び『先宮神社誌』を手にしました。前回は「屋根の葺替」とあって端(はな)から除外していましたが、改めて目を留めると「御遷宮」と書いてあります。安政6年(1859)の遷宮なら「本殿を造営した年」に関連する記述があるかもしれないと、つっかえつっかえ読んでみました。最近、神様の方から“お呼びがある”と思えるほど的中することがありますが、今回もその通りになりました。
 『先宮大神御遷宮書留』から関係ある箇所だけを抜き書きしました。

一、(前略)先年御遷宮相務候節之御初穂神献之品々其外入用等之物書立遺し申候有、合之品々に而酒を(後略)

(中略)

一、去冬当役古役百姓代参り候節書記し遺候、御初穂供物入用之品先帳左之通
寛政八年文化十年両度之先帳を以て書記し残し申候

 御湯立御初穂百疋 御遷宮御初穂百疋(以下略)

 「今回の遷宮に何を用意したらいいか」との相談に対し、「前回の遷宮時に入用の品を記録したものがある」と書き留めています。以降は(中略)としましたが、ここに、年が変わってからの準備から遷宮が終わるまでの様子が記録してあります。また、次の「一、」は、「去年書き写した入用の品は、寛政8年(1796)と文化10年(1813)の二冊ある『先帳』の通り」とあり、そのリストが続いています。
 遷宮は、通常は本殿の新・改築時に行います。寛政−文化が「17年間」と余りにも短期なので、寛政の遷宮は台風などによる応急修理が考えられます。一方、文化−安政は「46年間」ですから、文化10年に本殿が新築された後の屋根の老朽化が、安政の「先宮御神殿御屋根大破に及来春は葺替御遷宮致…」に繋がるとするのが自然と思われます。石鳥居の建造も文化9年ですから、この頃に社殿の大きな改修があったのは確実です。
 「故に」と、他に資料が見つからないのをいいことに「先宮神社の本殿は文化10年に竣工した」と結論づけました。

ケヤキの大木

先宮神社の拝殿 先宮神社には、拝殿前に大ケヤキがあります。諏訪市指定の天然記念物「大黶vですから、巨木ファンには、前述の伝承よりこちらの方に目が行くでしょうか。
 因みに、拝殿は大正元年に改築され、記録には「工費383円4銭6厘」とありました。