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桜湛木跡 茅野市粟沢 19.2.4

 桜湛木(さくらたたえぎ)は「天白社」の境内にあった。その天白社は「粟沢城の東」にある。この二つのキーワードだけが頼りです。居合わせた年配の女性に、まず「粟沢城」の位置を聞きました。ここは小泉「団地」ですから、いきなり「桜湛木」や「天白社」を切り出しても当惑するだけでしょう。
 粟沢城址の石柱は直ぐに見つかり、取りあえず起点が決まりました。しかし、「その東」がどれくらいの距離なのか全く分かりません。すでに、前を横切るのは県道から小泉団地を縦貫する道という交差点に立っています。T字路ですから、あくまで「東」にこだわると下の畑に落ちてしまいます。ガードレールから、のぞき込むほどの段差下の住宅周辺から八ヶ岳方面を、さらに左右をサーチしますがそれらしき祠は見当たりません。左は土手上に石塔が見える「小泉霊園」、右下は畑。車道を挟んで視線を斜めに往復させながら歩道を上ります。下の畑に灌木の塊があり御柱があり灯籠が見下ろせます。これで天白社が確定し、桜湛え木も…、とほくそ笑みました。
 そこへ下りる分岐までくると、左方の小高い斜面の上部に何かの石柱があるのに気がつきました。その右には祠も見えます。桜湛木跡の記念碑が、県企業局の手で建てられたことを本で知っていましたから、こちらの方が桜湛木跡のある天白社と確信しました。

大天白社の「大天白社桜湛木跡地」

雪の残る桜湛木跡

 コンクリートの石段を登り、その脇に立ちました。まさしく「大天白社桜湛木跡地」とあります。車で、推測した団地内を二度周回しましたから、やはり徒歩に限る、でした。この天白社は、南斜面最上部のやや下という立地ですが、全体としては、尾根の先端部にある粟沢観音の手前に当たります。今でこそ、天白と謎めいた名があるのにも関わらずただの野辺の小祠ですが、かつてはどうだったのでしょう。

 当時は木の祠であるはずの天白社境内に、遠目からも「あれが湛え木」と指させる一本の桜の大木をセットしました。豊作を祈願する神事とありますから、近在の村人が大勢見守っています。その中心にいたのが、馬に乗ったままの子供「神使(おこう)様」です。まず桜の湛木に(ミシャグジ)神を降ろします。しかし、どうやって降ろすのか伝えられていませんから、この時点でイメージはストップです。
 「湛」神事は、コースや日程などはある程度記録が残っているそうですが、神事そのものは全く分かっていないそうです。現諏訪大社上社の神宝である御宝鈴(鉄鐸)も持参したはずですが、どの時点で鳴らしたのかも分かりません。現代仮名遣いでは「湛え」となる「湛」の字から想像するほかなく、諸説の中で「湛えは讃え」で、徹底的に神を褒め讃えて秋の豊作を祈願する、という話に惹かれました。

 諏訪の各図書館には、地元の研究者がまとめた『諏訪史蹟要項』が必ず置いてあります。「桜湛木」については、『諏訪郡諸村並旧蹟年代記』の「粟沢村」の條に見える、として以下の文が載っていました。

昼湛之宮和田日向天伯宮ニ桜湛木有、凡(およそ)四五かひも有之(これあり)、寛政の始頃木成ル其後退転也

桜湛木の碑文 これを写し取る際に「枉」に疑問を持ちました。図書館で閲覧可能な『諏訪史蹟要項』は復刻版です。原本は「謄写版」と思われる手書き文字をそのまま印刷した冊子です。そのため、旁(つくり)を「王」としましたが、むしろ「壬」と読めます。江戸時代の毛筆の微妙さを手書きの利点を生かしてそのまま写し取ったのでしょうか。
 メモ代わりに撮った碑文の写真と比べてみました。ところが、石に彫った文字は「杜」になっています。「枉」か「杜」か、どちらを採用しても意味が通じません。原書を見ずして「どーのこーの」とは言えませんが、私は文の流れから「枯」としました。すなわち、「寛政の始め(1789〜)に枯れてしまった」となります。
 ところで、資料の「かひも」ですが、その直前に「凡(およそ)」とありますから何か大きさの単位のようです。「人が手を伸ばして抱える方法」で大木を表現することはよくあります。そこで、「四から五回(まわり))」→「四、五人でようやく抱えられる太さ」としました。控えめの計算では、直径約2mでしょうか。

昼湛

 『諏訪史蹟要項』には、別の資料も載っていました。川向こうにある御座石神社のお膝元「矢ヶ崎・塚原」地区では、天白社と御座石神社の中間にある「矢作武田八幡社」を「ひるだての社」と呼んでいる、とあります。続いて「ひるだて」は「昼湛」の転化で、地元の言い伝えの方が信憑性があるので、桜湛木は矢作社の方にあったのでは、とも書いてありました。

「朽木」が正解

 別の湛木である「桧湛木」については、『諏訪郡諸村並旧蹟年代記』の〔一、神之原村〕の項に

凡四五かひ有一本寛政之頃木ニ相也、木ノ穴中ニテ乞食火ヲ焚焼失今退転也
諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書』

とあるのを見つけました。似たような言い回しに、これは「定型文」と膝を打ちました。また、「乞食(こじき)が洞(うろ)の中で火を焚いたので焼けてしまった」は別にして、「枯木」ではないものの「朽木」と分かりました。「退転」も、現代の辞書では「〔仏教で〕修行を怠り悪い方に後戻りすること」とあります。よく使われる「不退転の決意」ですが、その意味が「今」理解できました。
 後日、同書の〔一、粟澤村〕を目にしました。やはり「朽木」でしたが、別文があったので参考までに紹介します。

同村和田新田之内櫻湛社大天泊元田中一統祝殿之由、田中淡路守居住之處(処)
諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書』