諏訪大社と諏訪神社トップ / 上社散歩道メニュー /

「鹿乙明神」と鹿音茶屋 諏訪市神宮寺 26.8.5

鹿乙明神

 嘉禎三年の奥書がある『諸神勧請段』に、正一位大明神(諏訪大明神)から始まる(くだけた言い方ですが)“神呼び”があります。その中から、「白山権現」に続く「鹿乙明神」の段から、関係する部分のみを転載しました。

鹿乙ノキタノハヤシノスムシワ…
鹿乙ノ明神シヤウシウレシトヲホスラン…
諏訪教育会編『復刻諏訪史料叢書第二巻』

 私には「鹿乙」に振り仮名は付けられませんが、読みやすく変換すると「鹿乙の北の林の鈴虫は / 鹿乙の明神終始嬉しと仰すらん」となります。『諸神勧請段』は、神名以外のフレーズは他の神々の段と共通ですから、端的に言えば「諸神名を呼び上げている」ことになります。そのため、「北の林の鈴虫…」などに、鹿乙の神の説明を求めることはできません。

 いつもの習いで「鹿乙」をネット検索に掛けると、「鹿乙温泉」しか表示しません。それも「その名の由来」を提示していませんから、この『諸神勧請段』だけに載っている「鹿乙」については、どのような神なのかわからないままになっていました。

鹿音茶屋跡

 細野正夫・今井広亀著『中洲村史』にある記述です。

 の西側に鹿音(しかおと)という茶屋があった。鹿肉料理専門で知られていた。(中略)道の東側には三平茶屋(岩波氏)があって、峠を越える馬方衆で賑わっていた。

 『村史』には「辻」とある交差点に、「旧杖突峠入口の道標」があります。下写真は5年前に撮ったものですが、目的外とあって「鹿音茶屋跡」は一部しか写っていません。写真ではわかりにくいのですが、道標(松・カーブミラー)と左のバス停の間に道があり、その先は杖突峠に通じています。

鹿音跡・杖突峠入口の道標 20.4.14
杖突峠(旧道)入口の道標       「鹿音茶屋」跡

 鹿音茶屋とされる一画は更地で、しかもブロック塀で囲まれているので、これまでは隙間から何かの石碑が見えるという程度の認識で過ごしてきました。

「守矢翁頌徳碑」でした。

 今年になって、私のサイト〔神長官守矢家の家紋(丸に左十)〕に「リンクさせてもらいました」とメールが届きました。その文面の詳細はここでは書くことはできませんが、参考資料として『信陽新聞』の切り抜き写真が添付してありました。
 メールをやり取りする中で、鹿音茶屋跡に今も残る蔵に「丸に左十字」の家紋があると示唆されたので、さっそく、確かめに行ってみました。

鹿音跡 いつの間にかブロック塀が一部取り払われており、中の様子が手に取るようにわかります。その奥まった蔵には確かに「丸に左十字」があり、一目で“守矢さんの蔵”とわかります。昭和63年の調査では長沢町に4軒の「守矢姓」があるというので、その中の一軒に入るのは間違いありません。しかし、この景観が保たれているのも後少しと思われます。

『龍門紀傳 守矢如瓢(もりやじょひょう)

 頂いたメールには幾つか興味を引くものがありますが、本人の承諾を得ていないので、(公開された)公の文章である添付資料『龍門紀傳』のみに絞って話を進めることにします。
 「この十篇の文章は、昭和四年六月二十三日夕刊から七月二日の夕刊まで、信陽新聞に掲載されたものである」と説明があります。まず当時の切り抜きが現存していることに驚かされましたが、その中から鹿乙に関する部分を転載しました。「鹿乙明神」の部分については、『復刻諏訪史料叢書』所載の『諸神勧請段』と照らし合わせて、一部替えてある箇所があります。

守矢如瓢(一)
 守矢如瓢は諏訪上社神宮寺の旧家なり。其の先は神長官家に出ず。(略)
守矢如瓢(七)
(略) 大政所(おおまんどころ)職を廃止するの止むなきに至りしかば、茲(ここ)に所謂(いわゆる)「長袖」の足を洗いて祖先貞書記義實の所由(しょゆう)を以て法華寺壇徒となり神宮寺村百姓一般の交際をなすに至れるなり。
 しかして以後は大政所職たりし関係を以て上社神饌の第一たる鹿を一手に納入し、副業として神符の鹿肉(ろくにく)を販売し、鹿乙(しかおと)の名を馳せしは古老の皆知るところなり。
 当時神社より特許(とくきょ)されし「鹿食之免 諏訪大祝」とある板木は鹿肉の箸袋に押せしものにて、この板木は往年守矢氏にて土蔵の修繕をなせし時大戸の上より発見せしものなり。
 なお同家には大政所時代の「諏訪上宮御玉会」「諏訪上宮大政所」等の板木十数種を伝来せしが、かかる考古学研究資料を故ありて焼棄(しょうき)せしは惜しむべきことなり。

守矢如瓢(八)

 神宮寺守矢氏の納入せる鹿肉は諏訪神社諸祭典唯一の御贄(みにえ)なるは諸記録記載の如くなるが、往古は四月十五日の酉の祭の如きは御頭郷より鹿肉三百三十貫白鷺一羽其の他種々の供物を納めたるものにて、中世は鹿肉三十三貫となり、現今は僅かに三貫三百匁となり、それさえ年によりては欠乏して他の代品を供するに至れり。
 而(しか)して往古此の鹿肉は斯(か)く多量なりしを以て、社頭にてはこれを塩ゆでとし、神符として一般の参詣者に下げたるものにて既記鹿食の免として箸を出したるはこれが為なり。
 又守矢氏の屋敷神を鹿乙(しかおと)明神と呼べるが、其の祭神を詳らかにせざれど、そのみ贄の鹿に関係あるは推考するに難からず。
 鎌倉時代の上社の諷物(ふうぶつ)『諸神勧請段』中にも所載あれば其の由緒の古きを証すべし。
 その諷物は
鹿乙明神
冬来ると谷川づけし雪氷、雪氷しぐれぞつけし山をめぐりて、
式なれば式をぞはやす式の間に、式のまにしきの蔵置け神もかえもうさよ、
湯蔵こそ神は喜べ湯蔵釜、湯くら釜七つならべて湯の花をめす、
湯たぶさを手に取りもちて拝むには、拝むには四方の神を受けて喜ぶ、
鹿乙の北の林の鈴虫は、すず虫は八千代の声を常に絶えせぬ、
鹿乙の明神しやし嬉しと仰すらん、仰すらんゆきただいまの花の清めよ、
注連の内おもさの鈴を振り鳴らし、ふりならし、たんばのみ神楽参らする、
夜もすがら昼をさやかに遊べども、遊べどもあかぬは神の心あるものよ、
 其の音調の典雅なる往古祭典の盛んなりしを想見すべきなり。
守矢如瓢(九)
 守矢彌平治は鹿乙として鹿肉納入最後の人なり。俳号を如瓢という。(後略)

 この記事には、鹿肉販売をした守矢氏の「屋敷神が鹿乙明神」とあります。ついに『諸神勧請段』の「鹿乙明神」が繋がった、とキーを打つ指先に力が入りましたが…。残念ながら、「其の祭神を詳らかにしない」「御贄の鹿に関係ある」ことのみで終わってしまいました。
 また、ここには「鹿音」の名が出てきません。茶屋「鹿乙」の耳伝え「しかおと」が「鹿音」と転化して『中洲村史』に記録されたのか、今となってはわかりません。

天狗山の守矢氏祝神

守矢氏の祝殿 その後に寄せてくれた情報に「鹿乙明神については、天狗山の石祠ではないかと書いていますが、一切は闇の中でたどる術がないと結んでいます」とありました。
 天狗山なら「あの天狗山か」と、自サイトにある「諏訪市天然記念物」を開くと、まさに「天狗山の石祠」でした。

天狗山のイチイ(抜粋)
このイチイは守矢氏祝神の神木である。この木の根元に二つの祠がある。一つは守矢氏祝神の祠で、一つは天狗を祀る祠である。天狗山の小字名はここからでたものという。
諏訪市教育委員会

 7年前の探訪時には単に「守矢さんの祝神」で終わっていましたから、ここで、この祠が「鹿乙(鹿音)の守矢氏」と重なったことに驚きました。ただし、案内板の説明では、左右のどちらが「(推定)鹿乙明神」なのかはわかりません。

昭和37年の守矢牧「小宮祭」 27.5.13

 鹿乙の守矢さんから、「1962年守矢牧の御柱祭」とタイトルがついていた、とある写真が届きました。

守矢牧小宮祭 前掲の写真と比較すると、石の台座が同じことから、当時は木祠であったことがわかります。イチイの根元に空いた洞(うろ)に朽ちかけた祠がありましたから、それが左写真のものということになります。
 メールの一部に「牧(まき・巻)は我が家を含めて6軒でした。よく初午の日に持ち回りで当番の家が幟旗を立てて守矢の家が集まり、宴をした記憶があります」とあるので、お稲荷さんを祀っていることになります。
 隣に天狗社があるので、御柱が2本ずつ建てられているのがわかります。


‖サイト内リンク‖ 長沢口の道標(杖突峠への道)