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先宮神社と新海神社 諏訪市大和 Ver 26.12.25

 新海神社というと、長野県佐久市の新海三社神社が知られています。『Google』で「新海神社」を検索すると、実際に、「三社」を(勝手に)付加した「新海三社神社」がトップ20を占めています。

新海神社・先宮神社
「新海神社」の別称がある先宮神社

 その“三社神社”に対抗して「否、諏訪にも新海神社あり」と声を上げても、こちらの新海神社はすでに名のみとなっており、現在はその詳細を紹介することは難しくなっています。

 ここに、古文献や刊行本を漁る中で見つけた「諏訪の新海神社」の“痕跡”を、列挙してみました。

『先宮神社誌』

 新海神社は、様々な名称があります。以下に書いてある“先宮神社の社名”が頭に入っていないと、かなり困惑します。

 小口濤夫著『先宮神社誌』に〔先宮神社の社名の由来〕があります。以下に転載した文は連続していますが、説明上、三つに分けてみました。

 文献上からみると、先宮神社の社名は、「佐久新海(佐久ノ新海)、佐久新海明神(佐久新開明神)、さき志んかい、新海社、鷺宮(鷺宮明神)、鵲宮、先宮(先野宮)、先宮社、先宮神社」と称されてきている。
佐久新海社 佐久新海社(佐久新海明神)については四つの説が考えられる。
 一つは前述の文献からして先宮神社の古称であるという説で今までの通説であったもので、寛政十二年(1800)に天竜道人が先宮神社に奉納した幟一対に「寛政十二龍集(※年) 奉納先宮新海大明神 庚申政月(正月)吉日 天竜道人八十一歳書」と印されてもいる。

 ここに、「先宮新海大明神」と書いてあります。ところが、9月になって、地元紙『長野日報』で「先宮神社のぼり旗 75年ぶり新調」とある見出しを目にしました。気になった写真をルーペで拡大すると、「奉納 先野新海夜明大明神天龍道人八十一歳敬書」と読めます。記事には「書かれた文字は天竜道人が奉納した当時を受け継いでいるという」とあるので、『先宮神社誌』の記述とは異なる結果になりました。

 二つ目の説は、同一境内地内先宮神社と佐久新海社の二社があったというものである。昭和五年八月に諏訪神社奉賛会が発行した「官幣大社諏訪神社鑑」(山田肇著)に、
先宮社 同じく高照姫命を祭る。但(ただし)下照姫命(筆者注、小坂鎮守の祭神で妹に当たる)と同人であって、即ち一身二名(いっしんにめい)の例である。  (後略)
佐久新海社 今では先宮を古は佐久新海社とも称したと云うているが、然に非らず(さにあらず)古は此の二社が在ったので、佐久新海は諏訪大明神の御子神である。
とある。

 ここでは、山田肇さんの著作を取り上げて、別称ではなく「二社説」を紹介しています。

 また、先宮神社所蔵の古文書の中に年代の明記のない文書、恐らくは明治以降と思われるものに村社先宮神社に附記して無格社として、熊野神社(字清水沢鎮座)、新海神社(字清水久保鎮座)、秋葉神社(字中屋倉鎮座)、御社宮司神社(字御社宮司鎮座)、山之神社(字山之神鎮座)、天神社とあるのをみると二社説もなりたつ。

 ということで、『先宮神社誌』は、二社説を裏付けるものとして境内社の新海神社を挙げています。しかし、その新海神社は、明治初頭までは(先宮から離れた)清水久保の地にあったということですから、関連付けるのは無理でしょう。

 その境内社「新海神社」を確認するために、先宮神社へ出かけました。しかし、境内のどこを探しても見つけることはできませんでした。

『諏訪市史』

新海神社(八劔神社) 諏訪市史編纂委員会『諏訪市史下巻』には「清水久保の新海神社は、八劔神社境内に合祀した」と書いてあります。実際、八劔神社の境内には新海神社の石祠があります(左)。
 こうなると、先宮神社には新海神社が存在しないことから、『先宮神社誌』の記述がおかしなものとなります。


「清水久保鎮座」の宮坂巻新海神社

新海神社(宮坂巻) ここまで「清水久保から移転」と何回も書いてきましたが、その清水久保には、現在も「宮坂巻」として新海神社が鎮座しています。
 『諏訪史』の記述を否定するような祠の存在ですが、この矛盾は、旧跡地となっても新たに祠を建立して祀る例が結構あることから説明がつきます。やはり「先祖代々から祀ってきたこの地がふさわしい。明治も遠くなったし」という思いがあるのでしょう。

先新海社

 再び『先宮神社誌』を読んでみました。明治30年とある『取調書』を見つけましたが、「備考」として挙げたものなので、器物の具体的な名はわかりません。

一、先新海社
本社(※先宮)器物中此唱号の記載あり

 これを「先(の)新海社」と読むのか、「佐久新海社」とするのか…。結局は、この四文字だけではヒントにもならないことがわかっただけに終わりました。

新海神社を古文献で探す

 新海神社は、古今で様々な名称がありますが、本文で用いる名称は「新海社」とし、参照したものについてはその文献の表記に従いました。
 参照文献は、断りがない限り、諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書』です。

 延宝七年(1679)に書かれた『社例記(写)』と『下諏方社例記(写)』があります。上社の『社例記』の〔前宮〕では、摂末社の一つ「一、手長明神 神子屋」の他に、

一、溝上宮 一、新海宮 一、金子鎮守

を挙げています。古文献では神社の名を祭神名で書いている場合があります。その一つの例が「手長明神が先宮神社」です。ここでは「先宮神社の別称が新海社」ですから、先宮神社と新海宮は別の神社として扱っていることになります。
 さらに、『下諏方社例記』の〔秋社(秋宮)〕では

一、鳥居一所 一、御玉殿 一、大和村真海社

と書いているので、下社(側)にも「真海社」が存在していることになります。しかし、この真海社には「大和(おわ)村」と附記してあるので、上社で言うところの新海宮と同じ神社であると考えるのが妥当でしょうか。そうなれば、「上社と下社で共有した」神社とする考え方も出てきます。

 宝暦6年頃に書かれた小岩高右衛門『諏方かのこ』から、〔一、諏方大明神両社〕の一部です。

◯秋宮 宝殿萱葺二社、…御作田社、真海明神社、御玉殿…

ここでも、諏訪神社下社の境外摂社の一社として書き留めています。

下社、または上社(が言うところ)の鷺宮

 本当にややこしいのですが、「鷺宮」は、先宮神社の古名の一つです。

大和村(おわむら)

 『祝詞段』などには、以下の一節が出てきます。

下ノ宮小和ノハマヨリヨスルナミ…

 これは「下ノ宮(※諏訪神社下社)、小和(大和)の浜より寄する波…」と変換できますが、南東の風のみに起きる現象と解釈できるだけです。現在も諏訪市の大和が下諏訪町との境にあたるので、下社と大和村には何かの関係があるように思えますが、それ以上の繋がりは見えてきません。

 『両社御造栄領並御神領等帳』があります。書目解題に「免田の定納とその神役の所(御造営銭とその出所等)」と「永禄年間信玄が再興を規定…書き留めたるものにてもあるべきか」とあります。この中から、下社の「末社之分」の一部を抜粋しました。「若宮」から「三澤十五所(※現在の三沢熊野神社)」まで書いてあります。

一、三貫文 九月廿九日大和鷺宮 小松新右衛門尉
一、三百文 鷺宮御柱免 大和之甚六

 それぞれ、「鷺宮(先宮神社)の式年造営には、小松某が三貫文を負担した(集めた)・御柱は、大和村の甚六が責任者となって鷺宮の神田でまかなった」と読んでみました。しかし、解説はともかく「鷺宮が下社の文書に書いてある」ことが不思議です。上社の古文献では「鷺宮の式年造営は下桑原之役」とあるので“その通り”なのですが、「下社の末社」として書いているのが理解できません。

 武井正弘著『年内神事次第旧記』から抜粋しました。

一、下宮(しものみや)神事、鵲宮(さぎのみや)湛・馬場上湛・伴町・小井川も、何も御神事…

 中世に書かれた記録ですが、鷺宮(鵲宮)で行う湛(たたえ)を「下社の神事」としています。これを、脚注で解説しているので併記してみました。

下宮神事 下社領域内で行われた湛神事。大(小)県神使の廻湛は諏訪湖を一周する順路で、昼湛の大和村鵲宮(先宮)から土武郷と呼ばれた下社圏内に入る。…鵲(かささぎ)をサギと読ませるのは先宮の伝承の故であろうか。…

 上社では先宮(鷺宮)を「三十九所」の一所としています。その先宮で行う神事が下社に向けたものであることから、鎮座地は下社圏にあったとも思ってしまいます。
 このように列記してみると、「社殿は上社のもので、境内地は下社」という、上社圏と下社圏が重層していた地域が大和だった、との考えもできそうです。お互いに“自分たちのもの”という意識があったのかもしれません。

 『諏訪史 上巻』〔第六章 中世の城館跡〕から高島城()茶臼山城の一部ですが、面白い記述を見つけました。

 古代から中世にかけて諏訪の支配関係は、上下社で二つに大きく分れ、更に上社内が惣領家と社家に分れていた。上下社の境は大和の千本木川・湖・天竜川で、一口に湖北と湖南山浦地方と呼ばれる。惣領家と社家の境は宮川が目安で、桑原郷と神戸(美和か)郷におおよそ二分されていた。
 桑原郷と下社側との境については途中で変更があったものと思われる。即ち上社権祝家文書嘉歴四年(1329)三月「鎌倉幕府下知状」によると鷺宮(先宮)の造営を下桑原の役としているが、次の室町幕府(至徳年中1384〜1387)からは下社の神主の管理となっている『史蹟要項』上諏訪篇109

 これを読むと、今まで取り上げてきたことが合点できます。しかし、これは中世のことです。江戸時代のことを知りたいのですが…。

「新海社」は、御神渡りに使う名称か…

 田中阿歌麿著『諏訪湖の研究』には諏訪湖の古絵図が幾つか載っていますが、いずれも「先宮・先ノ宮」と書かれています。唯一「新海宮」とある絵図がありますが、これは、以下の絵図を描き写したものでした。

「新海宮」 左は、財団法人諏訪徴古会(ちょうこかい)蔵『諏訪湖岸古絵図』の一部です。天和三年(1683)に作られた絵図が長年の使用でボロボロになったので、新しく描き直したものとされています。
 ここでは、先宮神社を「新海社」と書いています。ただし、「御神渡り拝観の記録用」とあるので、『諏方大明神画詞』の

佐久の新海社は行程二日斗り也、彼明神(新海社)と郡内小坂の鎮守の明神と、二神湖中に御参會あり

の関係から、先宮神社を、現在の新海三社神社の分社と想定した可能性があります。言い換えれば、新海社は、御神渡りの記録に特化した先宮神社の別称ということも考えられます。

先宮神社の新海社 26.12.1

 先宮神社の境内に、「三峰神社」と表示がある樹皮で囲われた覆屋があります。覆屋の中に小さな木祠が二棟並んでいますから、講違いの三峰神社二棟としてきました。

新海神社 かつて、“窓”から「さんずい」らしきものが見えたことから、左の祠は「新海神社」ではないかと考え始めていました。
 久しぶりに訪れると、「さんずい」であることが確定しました。これに当てはまる漢字は、津島神社の「津」とは読めませんから、「海」が最有力候補になります。これで、新海神社の神札としてもおかしくなくなります。
 私は「新海神社の総本社は、あくまで大和の新海神社」とすることに固執してきました。しかし、この小祠という状況では新海神社の総本社とはなり得ませんから、この小祠にある神札は、佐久の「新海三社神社」から頂いてきたものということになります。

改めて「先宮神社と新海神社」

 諏訪神社上社の摂社・末社でも、これだけの別称があるのは先宮神社だけです。また、大きく分けると「先と新海」の二系統になりますが、両名の間には確実にボーダーラインが存在していることは間違いありません。しかし、その“使い分け”は、時代の変遷では済まされないほど混沌としています。
 最後になりますが、迷説であっても高く掲げるのを信条としている私ですが、さすがにまとめきることができません。最後まで読んでくれたことに感謝をしつつ、ひとまず筆を置きました。