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新川(田辺堰) 諏訪市上金子 27.11.10

 標題の新川を、“昔”の風情が残っている今橋から宮川まで歩いてみました(左の歩行者アイコン→右側の歩行者アイコン)。


 地図の右にある「宮川」は、江戸時代には、この“新川の川筋”を流れていました。しかし、誰も信じてくれそうもないので、以下に『諏訪藩主手元絵図』を用意しました。

新川絵図
諏訪史談会編『復刻諏訪藩主手元絵図』から〔神宮寺村(部分)〕

 ここにある「諏方大祝」は、諏訪神社上社の大祝が居住した屋敷です。GoogleMapでは「旧大祝邸」と表記しました。

今橋 24.7.9

 この川筋は、かつて『字に残る「古」宮川(古川跡)』として紹介しました。それは最下段のリンクで読んでいただくとして、地図と絵図で紹介した、大祝邸の直近を流れる旧宮川筋を歩いてみようと思い立ちました。

新川「今橋」 現地の状況がわからないまま、取りあえずとして今橋の袂に立ちました。何気なく川面に目をやると、両サイドが板と杭で土留めされています。その川辺に「小さな祠と御柱」が“設定”されていますから、正に「諏訪の原風景」です。写真ではわかりませんが、橋向こうの林の中にも祠が見えます。「まだこんな所があるんだ」と、この暑さでは一時ですが、背中にへばりついている汗の不快感を忘れました。

 少し迷ってから、写真では左上方向となる川の流れに沿って歩くことにしました。ところが、橋から向こうは三面コンクリート貼りの川で、それに伴って民家や事業所の敷地が川岸まで迫っているという現状を知りました。廻り道で再び合流し、最後は「ここに出るんだ」と確認して、それ以上の遡行は諦めました。諏訪市博物館が見える県道の向こう側は、すべて碁盤目状の直線と化しているからです。

新川の上流へ

 再び今橋まで戻り、今度は、逆方向となる川上へ歩きます。

新川(田辺堰)
上部が今橋

 諏訪大社上社本宮から大祝邸へ行く道は何回か通っていましたが、その道中で見ていたアパート「コーポビッグスカイ」の裏に、こんな道があるとは知りませんでした。しかし、民家の前では私道とも思える様相をしていますから、気が退けます。怪しまれないように、下を向いて足早に歩きました。

新川(田辺堰)
川上を望む(右に旧大祝邸がある)

 春には、正に「春の小川はさらさら行くよ」そのままでしょう。桜も並木になっていますから、今は葉色を濃くした木姿ですが、満開時と川面に散る花吹雪が想像できます。余りののどかさに、この道を毎日散歩できる地元民に嫉妬を感じてしまいました。

旧大祝邸

新川「大祝邸横」 右が旧大祝邸の蔵です。左は、前に一之御柱も写っている「春日神社」です。『諏訪史 第二巻後編』の図録では、上社三十九所の一社である「中部屋社」と謳っていますが、現在の地図では一様に「春日神社」と表示しています。私は、文献では「合祀」という文字を見ていないので、“使い分け”に悩みます。新川は、この奥、赤屋根がわずかに見える民家の前を流れています。

 この先に、以下の案内板がありました。説明が詳しいので、全文を転載しました。設置者の表示はありませんが、内容から上金子区としました。

新川(田辺堰)
 この川は江戸時代享和三年(一八〇二)に高島藩が藩をあげての一大事業として、宮川のつけ替へ工事を行ったときに、釜囗水鬥から県道上社縄手前迄を旧宮川跡に、その下流は神宮寺地籍の河原の中を田辺村迄、新しく開かれた川です。上流の神宮寺と上金子の境を流れるこの川を、上金子では新川(しんかわ)と呼んでいます。
 元の宮川は今の古川堰の川筋を中金子の八立(はちりゅう)神社の裏に流れておりました。藩の工事であったので、工事に関する記録や、この川の管理の取り決め又書は、上金子村、神宮寺村、田辺村共に一切ありませんでした。
 上金子村の用水は、新川が開通する迄は、新井村を水源とし今の久保田橋からの道莇を並行して流れていた『中筋用水』に飲み水から農業用水、すべてをこの用水に頼っていました。
 新川開通以来、関係三地区の人達とは何の取り決め書もなく、名地区の人達の権利をお互に認めあう、慣習(しきたり)、不文律によって運営管理されてきました。
 今日に至る迄、上金子の人も神宮寺の人もこの川に雑廃水の一滴すら流すことは許されません。この事は区民周知の事で区民の誇りでもあります。この川の取水は釜口水門ですが小町屋の水芽(すいが※水眼の水と安国寺の清流のほとんどが流入している為に、稀なる清流です。
 近年、コンクリート三面張りの改修工事の話がありましたが、当上金子区は十余年に渉り“蛍の舞う新川”への改修を主張してきました。
 平成十二年末に、三地区改修委員会により、この川の歴史認識、慣習、不文律、各地区のこの川の改修に関する提案書等を文書により確認し、合意を得ました。その合意書を添付して、諏訪市長、建設部長に平成十三年二月、三地区区長連署で改修工事の陳情をしました。
 この川は諏訪の地でも、めずらしく自然の残る誇るぺき清流です。喜ばしくも、今夏は昔通りに、ホタルの乱舞する夜が幾日もありました。釜囗水門から下流の桜の植えられている土堤は、上金子区の管理する土地です。

 紛らわしいのですが、「旧宮川跡に、新しく開かれた川」ということで「新川」としたのでしょう。下流が「旧田辺村」なので、そちらの呼称「田辺堰」も併記したと思われますが、外からの目と成立由来からは、地元(旧金子村)の名称「新川」では戸惑ってしまいます。

釜口水門

釜口水門?「新川取水口」 案内板では「釜口水門」とある新川の取水口にたどり着きました。右が、茅野市の千野川社(亀石明神)の前から諏訪大社上社の近くを流れてきた宮川です。
 しかし、「釜口水門」といえば、岡谷市天竜町にある“あの釜口水門”です。諏訪湖を「釜」に見立てての「釜口」ですから、この場所で釜口という呼称は馴染みません。謎を一つ手土産にしたことになりましたが…。
 ここまで歩いたことで新川の“源流”が確認でき、まだ見ぬ「蛍の舞う新川」も知りました。

「宮川の釜口水門」とは

 『語り継ぎ神宮寺の民俗』刊行委員会編『語り継ぎ神宮寺の民俗 下巻』から〔宮川の今昔〕の一部を転載しました。「胴ばり」は直接には関係ありませんが、「御柱」が出てきたので“ついで”としました。

宮川の釜口水門と胴ばり  長澤の西澤と宮川の合流点から約十五米余り下流に、宮川本流を若干避けて石垣をつみ上げ、その底に地下水路が出来ていて、支流となる新川につながっている。この地点を昔から『釜口』と言って今に至っている。
 その命名由来もまたいつ頃造られたものか、手許の諸文献では解明の術(すべ)もない。ともかくこの『釜口』は昔から特に水利関係で、中洲・湖南、豊田各村にとって問題となる場所なのである。
 さて、この釜口から支流の新川に豊富な水を取り入れるためには、本流のながれを幾分なりとも停滞させなければならない。その役割をするのが『胴梁』で釜口の際から向う岸まで、長い太い丸太材を渡して埋め込んでおく。昔はよく明神様の御柱祭が終ると一か二の御柱を払い下げて貰って胴梁を取り替えたそうである。

 地元誌でも「命名由来は不明」としています。しかし、ここで終わらせないのが、このサイトの「命」、というか執念深さです。さっそくネットで検索してみました。
 『weblio 辞書』の歴史民俗用語辞典に「【釜口】鉱山において坑道の入り口」とあるのを見つけました。当初は水門のゲートがなかったため、トンネル状の取水口を「坑道の入口に見立てた」としました。これでしか説明できませんから、これが正解でしょう。

諏訪の原風景が… 27.11.10

今橋 大祝邸の紅葉を見てから今橋に向かうと、何か様子が変です。すぐに、祠の傍らにあった木がないことに気が付きました。
 切断面を観察すると、…中心部が腐食しています。「なぜ伐った」とこみ上げてきた怒りですが、枯れてしまってはやむを得ません。これで、(あくまで私の評価ですが)諏訪の原風景の格付けが下がってしまいました。

‖サイト内リンク‖ 『字に残る「古」宮川(古川跡)』