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副祝邸跡 茅野市神宮寺 22.9.15

 「副祝」には幾つかの呼称がありますが、ここでは「そえのほうり」とします。まずは「諏訪神社上社の五官の一つが副祝」と簡単に説明して、さっそく副祝邸跡へ行ってみましょう。

長坂主計「副祝邸」 諏訪史談会『復刻諏訪藩主手元絵図』から、一部切り取ったものをお借りしました。絵図が作られた享保18年(1733)では、副祝邸は「長坂主計」の名前になっています。副祝は代々長坂氏が務めたので、この時代では「主計(かずえ)」さんということでしょう。
 諏訪大社の南鳥居(二之鳥居)から前宮方面に向かうと、すぐに「三之鳥居」が現れます。絵図では下の道を右の枠外から左に進むと「赤い鳥居」が(始めから)見えます。その右手前の山側が「正八幡」ですが、正式には「中十三所」の九番に当たる「若宮」です。地元では「八幡神社」のほうが通りが良いので、「若宮」で尋ねると首を横に振られるかもしれません。
 やはり、順番とすれば若宮社の参拝が先でしょうか。境内の左奥に、名前が気になる「守矢さん」宅があります。その前を左に抜けると、「女沢(めさわ)」沿いの道に合流します。

「万福寺別院」副祝屋敷跡 夏は避けたい急坂ですが、汗をかく前に写真の風景が現れます。ここは、今でも「長坂畑」と呼ぶそうですが、今回訪れた時は「萬福寺別院」が建てられていました。こうなっては、その名が消滅するのは遠くないでしょう。写真に見える入口右手に「伊勢神宮遙拝所」とある50センチ角の石碑があります。これも「守矢さん」ですが、副祝とは関係ないプライベートな記念碑です。
 寺院の大棟に「諏訪梶」の上社紋が見えます。法華寺も神宮寺の縁で諏訪梶を使っているので、萬福寺も諏訪大社と何らかの関わりがありそうですが、現時点ではわかりません。

副祝屋敷跡

 別ルートの「上社の杜・歴史散歩道」で「神宮寺跡」から「五本杉」を経ると、墓地下の道に替わります。そこから撮ったのが上写真です。右側に、『諏訪藩主手元絵図』では「正八幡」とある若宮から登ってくる道が見えます。
 道下の畑と萬福寺の敷地が二段に分かれているので、絵図からは、副祝邸がどちらにあったのか確定できません。あくまで副祝邸の「跡」ですから、放置畑と萬福寺の境内を見るだけのツアーになりました。しかし、官家の一つ副祝がここに屋敷を構えていたことを想像すると、見下ろす甍の波も、…この状況ではただの市街地でした。

高部にあった副祝邸

 高部歴史編纂委員会『高部の文化財』に、茅野市高部にあった旧副祝邸跡について記述した文がありました。

 副祝は早くからここに住んでいたようで、高部にあったという邸跡は見当もつかない。(中略)
 副祝の邸は、磯並社を少し下ったあたりであろう。この辺は一時田んぼになり、今は果樹園などになっているが、邸跡と思われる所が二、三か所ある。御手洗川の水を使って、諏訪盆地を眺め、浩然の気を養っていたのかも知れない。
 長坂へ移った時期ははっきりしないが、諏訪頼水が諏訪へ帰って、大祝の勢力を削ぐことを考えた頃かと思う。(後略)

岩窪山萬福寺

 萬福寺は諏訪市四賀にありましたが、連絡先が岡谷市の「平福寺」になっています。現在は無住の寺でしょうか。詳細がわからないので、とりあえず「諏訪大社に何らかの関わりがある」としました。
 翌日、紅葉で有名な茅野市の「長円寺」を思い出しました。この寺は、廃仏毀釈で上社神宮寺から「薬師如来」を受け入れたことから、「武田菱と諏訪梶」が紋所になっています。その線で調べると、「上社廃寺から散った品の行方」として「万福寺諏訪市四賀 五智如来・神宮寺師資相承系図一幅・金剛宝蔵」とありました。萬福寺も、神宮寺の仏像を引き取った縁で諏訪大社上社紋を掲げていることがわかりました。
 長坂氏の現在の所在はつかめませんが、明治期に萬福寺のある諏訪市四賀に移ったことがわかっています。(当時はよくあった)萬福寺の僧籍に入ったとすれば、その子孫がかつて住んでいたこの地に別院を建てたことも考えられます。