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手長神社 諏訪市茶臼山 17.8.16

 林立する大型建造物群の背後に、山が迫っています。諏訪湖から手長神社がある上諏訪駅方面を眺めるとこんな表現になりますが、それは湖周の平地が極端に狭いことにあります。緩傾斜地にはビルに代わって住宅地が広がり、緑が境目となっている山裾には、目には定かに見えませんが、かつての幹線道路である旧甲州街道が横切っています。

手長神社参拝

 一之鳥居から見上げる石段に、思わずため息が出ました。大汗と引き換えにその急傾斜を上り詰めましたが、それはまだ序章に過ぎないことがわかりました。それでも、これまでに失った気力・体力・汗は、踊り場のように横切った甲州街道で束の間の回復を見せてくれました。

手長神社

 手長神社の境内は大きく二壇に分かれていました。幣拝殿・本殿が鎮座する上壇では、下界とも言える諏訪湖側から吹き上がる風が木漏れ日を大きく揺らしています。大汗をかいた後ではその強さが何よりもうれしく、ミンミンゼミの喚(わめ)きも盆休み最後の日に相応しいと聞こえるほどでした。
 幣拝殿の彫刻は、諏訪大社に引けをとらないほど凝っていました。近づいて上を仰ぐと、「屋根裏」ですから暗いのは当然ですが何か様子が変です。海老虹梁に目を凝らすと異様に黒くなっていました。案内板にある「火災」が思い当たったので改めて読んでみると、「昭和29年6月15日、不慮の火災により損傷した」とありました。外観というか“陽の当たる場所”を漫然と眺めていれば、この痛ましさは気が付きません。私も見なかった方がよかったと思うくらいでした。
 拝殿の左は回廊で、下の社務所まで続く長さに社殿の重厚さが増していました。

手長神社本殿

手長神社「本殿」 手長神社の本殿は、幣殿背後の山に掘り割られた狭い空間にあります。それが見える場所を求めて移動しますが、極一部しか見えません。

 諦めて、旧本殿の軒下を借りて撮った本殿は、諏訪では珍しい「神明造」でした。旧本殿の定紋幕に「梶」が無ければ「どこの神社だろう」と思ってしまいます。祭神が女性とされているためでしょうか、千木が内削(そ)ぎになっていました。

手長神社の旧本殿

手長神社「旧本殿」 諏訪市指定有形文化財「手長神社旧本殿」とある社殿です。現在の本殿が造営された時に、弥栄神社として再出発したのでしょう。
 案内板は詳しい解説を一所懸命述べていますが、私にはチンプンカンプンです。「棟札や関係文書から宝永六年(1709)伊藤庄左衛門によって建造された」とだけ紹介します。

神木のケヤキと能楽堂

手長神社「幣拝殿と能楽堂」
蘖のケヤキ能楽堂

 社務所にいた宮司に、石段右手にある玉垣の由来を聞いてみました。その円形の中心にはただの細い木が一本あるだけで、崇めの対象とはほど遠かったからです。「かつて神木とも言える大ケヤキがあったが枯れてしまった。ところが、蘖(ひこばえ)が出て、それが今目にする木に成長した」ということでした。
 能楽堂の右手から現れた二十歳前と思われる女性が、“予想”に反して石段を登り始めました。投げ入れた賽銭の乾いた音が、私の許まで微かに届きました。何を祈り続けているのでしょうか、蝉時雨の中に消えてしまったような気配をそのままにしたくて、再び汗の甲州街道に戻りました。

明治33年の本殿と神木 28.1.24

手長神社の神木 渡辺市太郎編『信濃宝鑑 六巻』から、〔郷社手長神社之景〕とある絵図の一部を転載しました。明治33年とありますから、現在の景観と比べてみました。
 まずは本殿ですが、流造(ながれづくり)で描かれているので、この時代では旧本殿であったことがわかります。しかし、片拝殿と廻廊もありませんから、果たして正確に描かれたのだろうかとも思ってしまいます。
 次はで囲った神木ですが、この頃でも樹勢が衰えていたと見えて、切断後の太枝しか描かれていません。「目通り二十三尺廻り」と説明があるので、直系は73cm強となります。神木とするには細めですから、宮司の「神木とも言える」が納得できました。


‖サイト内リンク‖ 「手長神社・足長神社と先宮神社・荻宮社の怪しい関係」