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有賀千鹿頭神社 諏訪市豊田有賀 19.4.14

 大熊(おぐま)の南方御社宮司社から北方御社宮司社・湖南(こなみ)の習焼神社から蓼宮神社を経て、中央自動車道をくぐって山際に向かうと「江音寺(こうおんじ)」です。ここまで来ると、「中央自動車道ライン」に沿って“昔ながらの寺社”が連なっているのが実感としてわかります。
 本堂・山門を横に見ながら、今度は中央道を見下ろす“参道橋”を渡ると、…目の前に展開していたのは急坂を行き交う車の流れでした。一瞬戸惑ったものの、すぐに県道50号と気が付きました。二本線の“紙道路”を見ながら歩き続けてきたので、「諏訪からは有賀峠の向こうが上伊那郡辰野町」という幹線道路が横切っていることに頭が及びませんでした。
 千鹿頭(ちかとう)神社はこの道を横断した先ですから、この場所に立って初めて「江音寺と千鹿頭神社が要の位置を占めている」ことに気が付きました。
千鹿頭神社 ここまで来れば地図より、と目の前のこんもりした杜を目指して最短距離と思われる道を選びます。畑脇の小道をたどった先は、少し外れて境内の裏でした。本殿を右に見ながら回り込んで拝殿の前に立ちました。千鹿頭神社です。

千鹿頭神社「拝殿」
例祭日の千鹿頭神社(20.4.6)

 拝殿は、屋根の木組みを除くと全てが黒く塗られています。防腐が目的なのでしょうか。それとも、何か謂(い)われがあってのことでしょうか。拝礼を済ませてから、本殿を横に見る場所まで戻りました。

千鹿頭神社覆屋 黒塀の上は有刺鉄線です。神社には珍しい対人武装なので、「過去に何かあったのだろうか」とあれこれと想像してしまいました。
 後に「覆屋」と知った本殿の鬼板は「諏訪梶」ですが、大棟の紋がそれとは違います。ズームを最大にしても、斜め方向とあって液晶のファインダーではよく見えません。「自宅で検証しよう」と、取りあえずカメラに収めました。本殿は屋根しか見えないので、“見越しの屋根”を撮り終えると後は引き揚げるしかありません。
 今日は春の陽気に誘われての“遠足”ですから、千鹿頭神社の前知識を持ち合わせていません。「見どころ」を探せないまま、この先の「津島社」へ向かいました。

千鹿頭神社と千鹿頭神

 この案内板は、中央自動車道上の「導水記念碑(安沢水神碑)」に並記してある「千鹿頭神社」から抜き書きしたものです。簡潔で要領を得ているので挿入しました。

千鹿頭神社
 別名、浜南宮千鹿頭大明神とも呼ばれ、諏訪神社上社の摂社である。祭神は、内県命または千鹿頭神で、建御名方命の御子神といわれる。嘉禎三年(1237)の『祝詞段』に「チカト若宮」の名が見られる。
 伝説には諏訪神社上社の御頭祭(酉の祭)に神前に供する鹿の頭を調達する古例があったと云われ、有賀氏、諏訪氏、千野氏等武将の尊信も厚く祭礼は盛大であったという。

 千鹿頭神については、諏訪史談会『諏訪史蹟要項』に「俗説に、洩矢神の子に山猟をよくし鹿を多く獲った神」とあります。また、神長官守矢氏の系図では「洩矢神の三代目が千鹿頭神」となっています。
 一方、「建御名方命と先住の洩矢神との間に確執があった」ことは、伝説としてよく知られています。そのため、「優位に立った建御名方命が洩矢神の血を引く千鹿頭神を追い出し、代わりに息子の内県神を据えた」という説が成り立ちます。この「千鹿頭神追放話」は高部歴史編纂委員会『高部の文化財』からの受け売りですが、余りにも“魅力的”なので私はすぐ飛びついてしまいました。

千鹿頭神社本殿の「三つ盛り亀甲紋」

 自宅で、千鹿頭神社本殿大棟の神紋を調べると「丸に三つ盛り亀甲○○」です。亀甲の内側がよく分からないので、○○としました。名前はわかりましたが、それで“プッツン”です。

千鹿頭神社の神紋 図書館で見つけた『千野(茅野)氏概説』をパラパラとめくると、見覚えのある神紋が、もう飛び出したとしか思えないタイミングで目に留まりました。しかし、千鹿頭神社の神紋と同一だとしても双方の繋がりが分かりません。
 拾い読みで、諏訪藩家老・千野氏の菩提寺が(冒頭の)江音寺とわかり、有賀城に居住していたことも知りました。城・寺・神社は同じ有賀郷です。本殿を寄進した見返りに「大棟に堂々と千野氏の家紋を入れた」のでしょう。
 同冊子に、「千野四朗為貞は、前九年役に出陣の功績により従来用いてきた家紋の亀甲の中に唐花(花菱)を挿入することを許され、千野氏の定紋は現在の如きものとなったという」とあり、正式名は「中輪に三つ盛り子持亀甲に唐花(花菱)」でした。因みに、著者の千野廣氏は、(高島藩)第11代三の丸家老の孫とありました。
 後日、菩提寺の江音寺で千野氏と同じ「紋」と確認しました。

千鹿頭神社本殿 20.4.6

 朝刊で、千鹿頭神社の宵祭りが昨日あり「今日は本祭り」と知りました。本殿の拝観ができそう、と早速出掛けました。
 長大な幟旗が遠目でも確認できるので、つい「今日は、楽しいお祭り日」と口ずさんでしまいます。近づくと、やや強めの風とあって“ハタハタ”と鳴(舞)っていました。宵祭りがメインのようで、午後1時からの本祭りは、神社役員を除くと、舞屋で浦安の舞を奉納する子供とその親族だけという質素なものでした。

千鹿頭神社の本殿 終了後、役員の方に断ってから拝殿に上がり、本来の目的である本殿の写真を撮ることができました。
 自宅でその写真を見ているうちに、何かおかしいことに気がつきました。外から見た本殿と写真の本殿の位置関係がしっくりしません。
 時間をおいてよく観察すると、「本殿」と見ていたのは幣殿で、御簾の奥にある小さな社殿が本殿とわかりました。「入れ子の本殿」と言った方がわかりやすいでしょうか。真正面で撮ったので、奥行きを感じなかったのが原因でした。

千鹿頭神社「浜南宮」 案内板にもある、拝殿に掲げられた「濱南宮」とある額です。蛍光色とも見まがうのは、顔料に緑青(ろくしょう)を使っているためでしょうか。

 浜南宮とは本宮(諏訪神社)を南宮大明神と呼ぶ処から、浜にある南宮として、千鹿頭の宮を本宮の一域として見るによるもので本宮同様の信仰をこの神社につないだものである。
豊田村誌編纂委員会『豊田村誌 下巻』〔第八章 信仰〕

千鹿頭神社の総本社

「千鹿頭本社」板垣信方奉書 有賀千鹿頭神社が保管している文書に「板垣信方奉書(写)」があります。一行目に「有賀之千賀多本社」とあり、同郷(有賀村)・上原村・埴原田村・筑摩郡神田村(※松本市神田)は、田神役の事」と書いてあります。
 これらの旧村には現在も千鹿頭神社がありますから、有賀の千鹿頭神社から祭神を勧請したことがわかります。

 ここに出る「大安寺」については、以下を御覧ください。同じ永禄8年の出来事です。

有賀氏と大安寺 有賀と真志野の境辺に「ダイアミ」とか「デエアミ」と呼ばれる地がある。ここがかつての金剛山大安寺のあった場所だといわれている。(中略)その後、永禄八年(1565)五月、豪雨による山崩れ大洪水に襲われ廃寺となってしまった。
豊田村誌編纂委員会『豊田村誌 前巻』〔第四章 中世の豊田〕